谷崎润一郎的《春琴抄》世界_日语外文翻译
译文:
佐助初次见到九岁的春琴时,就被她身上的气质打动了。春琴确实散发着气质,这气质和《痴人之梦》里小恶魔直美她身上放荡的感觉截然不同。
春琴在十三、四岁开始就有了打骂佐助的施虐倾向,她决然地说道“欺凌妇孺,天上的神灵会惩罚;即使是孩子也要严格督促;做老师就要讲究师道。因此春琴打着“艺术的神圣”的幌子做着施虐的事。所谓的气质也是这样而来的。包含着她对这种精神的喜爱之情的《天鼓》也就诞生了。
即使原来是不知名的小鸟,只要在幼时好好磨练,它的声音就会和野鸟截然不同。飞翔的时候也和野鸟不一样,但是我觉得毫不逊色。学习音乐歌曲的诀窍也正是在这,要尽自己的全力,和天然之美一争高下。这就是春琴的教授之道。
春琴的容貌几乎没有什么变化,即使她更加严厉,使得佐助和弟子过着水深火热的日子,即使没有了华服和佳肴,但她仍旧执着于清洁,她用夜莺的粪活丝瓜水孜孜不倦地擦拭自己的面容和四肢。正是如此,她不论几岁都保持着自己容颜。在她三十七岁的赏梅宴上才有了这样的描述她极美的话“看起来她比实际年龄小十岁,肤色白皙,看后颈白的似乎让人感到有寒气”春琴有三大美,肤之白,之艳,之滑,尤其是头发、脚后跟、后颈。由此可见,春琴的美就是尽人力来保持的美的象征。那些剥夺了春琴个性的作家看到这里应该明白了吧。
春琴的琴技之高,本身容貌之美,已经远远超过了自然之美,因此极致的人工之美开始大行其道。到了春琴遭遇祸端的三十七岁时,本应添上岁月痕迹的她依然美丽。春琴的技艺应经到了被称为大阪最一流的琴手的程度,别人说:从未听过如此优美的琴声。同时春琴的美貌也是她抱着三十七年的执念呵护而成的,并非一朝一夕而得到的。春琴这种极致的美,也是人类超越止境的表现。
寄托着春琴自我意识的佐助,完全在春琴的生活中扮演着一个牺牲者的角色,他完全活在对春琴的信仰之中。春琴的极致的人工之美和佐助在恶魔主义下牺牲者形象都让人难以忘怀。春琴和佐助有各种接触关系,甚至到了无所不知的程度。但是她们是没有夫妻关系和恋爱关系的密切关系。
没有夫妻关系和恋爱关系的密切关系,但是从佐助作为牺牲者的意识中,我们也能明白那种两人的情欲世界。
サド侯爵说过:性的结合是一种妥协,是在生与死中间时段的过渡手段,暴力实行只是适应了那种已人至上的想法。サド侯爵也曾讲到:有些人只是因为在中间过渡时段没有找到伙伴,死只是生的印记,它是一个永远的退路。而且人类还没有达到能够想象到美的极端。帮春琴捂脚的佐助,在作者的笔下,在佐助的意识里,也只是一种无限的生的印记,是没有夫妻关系和恋爱关系的密切关系。佐助也是享受着受虐待狂的乐趣,这就是他们俩的情欲世界。
基于本质的情色世界的美是被期待被玷污,不仅是美的本身,更加是对美的信仰。禁忌的人性就是看在这情色世界里的美被冒犯、被玷污。美要越大,玷污它的欲望就越强烈。把自己作为人工之美的物化,崇尚暴力至上的春琴,与永远充当着牺牲者的佐助的情色世界里,春琴的美越来越登峰造极,已经到了神的高度。这也导致了她最终要被冒犯、被玷污的命运。我们看到描写春琴与佐助的情色世界已经超过了人的想象之外,把他们悲惨的结局看做是《春琴抄》中的犯罪也未尝不可。日语论文:http://www.rylww.com/paper/sort01/list_2.html
原文:谷崎潤一朗『春琴抄』の世界
佐助は始めて九歳の春琴を見た時、「盲目の春琴の不思議な気韻に打たれた」という。確かに春琴の放つ芳香は「気韻」というに相応しい。『痴人の愛』のナオミが小悪魔のようなコケットリーを顋す姿態とは甚だ比べものにならない代物である.
十三、四歳の少女の頃から佐助を折檻することで嗜虐性の傾向を見せ始める春琴はそれを咎められるが否や「汝等妾を少女と侮り囈道の神聖を冒さんとるや、たとひ幼少なりとて苟くも人に教ふる以上師たる者には師の道あり」と毅然と言い放った(十一段落)。それは春琴が「藝道の神聖」に裏打ちされる修養なまでの精神によって生かされる存在であることの、あまりに象徴的な出来事であった。「気韻」とはまさにその精神から溢れ出す美的形象に違いない。そして春琴の藝道にかける糟神は殊に愛した鶯「天鼓」にあやかってかの如く飛翔する。
元来は名もなき鳥の罷なれども幼少より錬磨の功空しからずしてその聲の美なること全く野生の鶯と異なれり.入云はん斯くの如きは人工の美にして天然の美にあらず…略・然れども妾は左様に思わず、藪鶯は時と所を得て始めて雅致あるように聞こゆる也、…略…是れ技工を以て天然の風景とその徳を争うもの也、音曲の秘訣も此處に在りと、…略・(十六段落)「技工を以て天然の風景とその徳を争うもの」…人工の限りを尺、くし「天然」と徳という名の美を争はんとする、まさにそれが春琴の藝道にかける姿勢だったのである。
そして春琴己の容色美にかける姿勢も何等それと変わりはない。佐助以下の召使たちに爪に火を灯すような生活を強いても、美衣美食を貧り、執拗なまでに清潔を心掛け、鶯の糞を糠に混ぜ糸瓜の水を珍重し顔や手足をつるつるになるまで磨き込む春琴(十四段落)。そのお陰でこそ彼女は「肉づきが思いの外豊に色が抜ける程白く幾つになっても肌に若々しいつや」を維持したのであった。三十七歳「梅見の宴」(二十段落)で誇った絶頂の美は、斯くして「十は若く見え色は飽くまで白くして襟元は見ている者がぞくぞくと寒気がするように覚えた甲の色のつややかさは一座の瞳を悉く恍惚たらしめた」と語られることになるのである。つまり、春琴美が3として前出した肌の白さ、艶やかさ、滑らかさ(髪、踵、襟元、手の甲)に絶頂感を以て向かっていった様にこそ我々は春琴美が人為の限りを尽くした美の象微だったことを知るのである。春琴美の物質的形象に個性の剥奪を意図した作家の意志はまさにア篇こで明臼となるであろう。
春琴の藪道の美、己の容色の美は、天然の美までを遥かに超越せんとする究極の人工美に激昂する。ここに至れば春琴災禍に向かう三十七歳という年齢は、容貌の極まりではなく人工美が究極的に磨き挙げちれるに必至な年月の示唆と読むべきなのである。「春琴の如き微妙の音を弄するものを他に聞いたことがない・・・」「大阪第一流の名手」と呼ばれるまでに至る春琴の芸、又は容色の美は決して一朝に出来上がったものではなく三十七年間もの激しい美への執念によって磨き挙げられた人工美の賜物であった。春琴極まりの示現とは、入間が踏み出す域を超えんとする凄まじき人工美極まりの示現である。
春琴のエゴを意を寄せて迎える佐助は、全く<犠牲者>という役目の中で春琴の生、春琴の美への信仰に溶解してしまおうとする。同時に春琴という人工美の権化、悪魔的な存在は佐助というく犠牲者〉なくしてあり得なかったことを忘れてはならない。そして次の件である.
肉体関係ということにもいろいろある佐助の如きは春琴の肉体の巨細を知り悉くして剰す所なきに至り月並みの夫婦関係や恋愛関係の夢想だにしない密接な縁を結んだのである
「月並みの夫婦関係や恋愛関係の夢想だにしない密接な練」、さらに佐助の〈犠牲者〉へ意志に、我々は「夢想だに」しないエロティシズムの世界を知るであろう。
サド侯爵は「性的結合は妥協であり、生と死の間の中途半端な手段に過ぎない」とし、「暴力の遂行のみが人間至上のイメージにふさわしい」とした。そして「サドにとって他者はそこでパートナーではあり得ず犠牲者である」とバタイユは言及し、同時に「犠牲においては同時に死は生のしるしであり、無限の逃げ道なのである。」と論じたのである.サドの「暴力の遂行のみが人間至上のイメージにふさわしい」とは、まさに人間が想像し得る美の限界に到達せんとする春琴を春琴足ちしめる佐助、又は作冢の簸であり、さすれば佐助の熱烈な「犠牲」への意志も自らの為の無限の「生のしるし」に他なちない。、月並みの夫婦関係や恋愛関係の夢想だにしない密接な縁」…サドーマゾの悦楽を孕みながら、それが春琴・佐助の究極のエロティシズムの世界なのである。
そして本質的にエロティシズムに於ける美とは「汚されるために望まれる。美そのもののためではなく、美を冒濱する確信の中で味わわれる歓びのために…」「禁止を意味する人間性はエロティシズムの中で違犯され、冒漬され、汚される,美が大きければ大きいほどそれだけ汚すことも強烈になる」のである。つまり自身を人工美の権化となし、暴力をして人間至上の姿に近づこうとする春琴、その「犠牲者」となって永還に生かされようとする佐助、彼等のエロティシズムの世界は春琴美が極まれば極まるほどに高揚し、神をも冒す至上の姿に達したとき、全く「違犯され、冒濱され、汚される」運命をも孕まざるを得なかった。我々は春琴・佐助のエロティシズムが人間の意志や限界を超えるほどの凄まじい至上を描いて見せたことを『春琴抄』の犯罪によって知らされるのである。