中日两国佛教的关系_日语外文翻译
译文:
中日两国作为邻国,从古代开始就有友好交流的传统。在遣唐使往中国来的同时,很多学识渊博的和尚也将中国佛教传往日本,成为日本传统文化的一部分。但是,在中国,宋代以后,佛教开始变得衰弱,明清的中国佛教因为有限的禅宗和净土,作为教理的三论唯职的研究也中断了。隋唐时期写的注释资料,例如吉藏的《百论疏》等等也失去了。近代以来,中国佛教重新开始研究三论宗义和唯职思想,最盛行的就是日本南条文雄博士的大贡献。
要说近代中国佛教的兴起,是杨文会居士和在英国留学的南条博士成为朋友,然后,通过南条博士将中国失去的众多的论典重新从日本输入。杨文会在南京将这些出版,然后支那内学院设立的研究已经终端的唯职思想等的重新开始,产生了很多成果和人才。近代有名的学者也大多是这个学院出身的。这个刻经处在40年间出版了460部左右的经典。在此之内的283种经典,南条博士送来的占了70%左右。如果没有南条博士的帮助,中国近代佛学的研究也会更晚。
在文化大革命之后,1980年为了迎接鉴真和尚像,间隔10年的中国佛教学会重开,然后北京的法源寺等重新开放。中国佛学院也再开,为了复兴中国佛教,开始教育人才。
因为这个,中日两国的佛教互相影响,互相帮助,是不能剪断的缘分。所以中国佛教协会会长越朴初先生为中日佛教关系取名“金绅”。但是,中国人对日本佛教的现状不是很了解,日本人也不知道中国佛教的现状也是事实。了解多样的佛教,才能交流,才能共存共荣。
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原文:中日仏教の関係
日中両国は隣国であり、古くから友好交流の伝統がある。遣唐使とともに中国へ渡った大勢の学僧たちが中国仏教を日本に伝え、日本の伝統文化の 一部となっている。しかし、中国では、宋代以後、仏教が衰弱していき、明清の中国仏教は研究と修行において禅宗と浄土に限られ、教理としての三論唯識の研究はほぼ断たれた。惰唐に撰述されたこ論と唯識の注釈資料、例えば吉蔵の『百論疏』や窺基の『唯識述記』などさえ失われた。近代になって 、中国仏教が再び三論宗義や唯識思想、の研究を取り戻し、盛んに行われたのは日本の南条文雄博士の多大な貢献があったからこそできたのである。近代中国仏教を中興したと言われる楊文会居士がイギリスで留学中の南条博士と知り合い親交し、その後、南条博士を通じて中国では失われた多くの貴重な仏典や論疏が日本から輸入された。楊文会は南京の金陵刻経処でそれらを出版し、また支那内学院を設立しそれまで断たれた唯識思想、と三論宗義の研究を再開し、多くの成果を上げ人材を育成した。近代の有名な学者のほとんどは、この 学院の出身である。 この刻経処は40年間都合460種類の経典を出版した。その内283種類の経典は南条博士から送ってきたもので全体の約 70%を占めている。もし南条博士の助けがなければ、中国近代仏教学研究はかなり遅れたであろう。
また、文化大革命後、中国仏教を復興したきっかけも日本の唐招提寺森本管長が鑑真和上像を里帰りさせたことである。文革後、 1980年に鑑真和上像を迎えるために、十年ぶりに中国仏教協会を再開し、また北京の法源寺など何カ所もの寺を開放した。中国仏学院も再開して、壊滅した中国仏教を復興するために、人材育成を始めた。
このように、日中両国の仏教はお互いに影響し、助け合っており、きっては切れない縁がある 。故中国仏教協会会長越朴初先生は日 中仏教の関係を“黄金の紳"と名付けている。しかしながら、中国人が日本仏教の現状についてほとんど知らないように、日本人も中国仏教の現状についてあまり知らないという事実がある。多様な仏教を分かり合い、理解し合ってこそ、真の交流ができ、共存共栄できるのである。