译文
从受欢迎程度来说,新選组和赤穗浪士不相上下。
司马辽太郎先生赞誉近藤与土方两人为“最后的武士”,“两者都死得壮烈。他们对武士充满了憧憬,而事实上,他们也是日本最后的武士,死得其所。对一个男人来说,这也算是幸福的一生了吧。”
对于新選组受欢迎的理由,尾崎秀树先生是这样分析的。“很显然他们对于身份地位有着渴望。而这种渴望都灌注在了为德川家献身之上,这样就让悲剧性倍增了”“即使在尊王派占主导的战时,近藤勇和土方岁三依旧保持着不变的人气。这可以说是一种判官热的结果,大众心中的新選组的形象和历史学者的评价区分了开来。”
原来如此,这是人们对于献身给步入毁灭的德川家的英雄们的同情吗。同样是幕府末期被称为高手的剑士们,例如土佐藩的冈田以藏,萨摩藩的田中新兵卫,大和十津川的浦启辅,肥后藩的河上彦斋(人气漫画的主人公,浪人剑心的原型)等等,硬要说的话都属于革新派。如此看来,受欢迎的原因并不在于政治倾向,而在于其执著的态度。再详细点说的话,日本人喜欢的人物形象就是,不管抱有怎样的信念,能够坚持着自己选择的道路,克服阻扰,并做出了震撼时代的事迹,却在生前没有得到应有评价之人。
服部之总先生说“那日的事件导致了攘夷活动的推迟(池田屋事件),比起谴责幕府当权者,现如今更加重要的是,以近藤勇为首的新選组被课以了死守公武合体制度的任务---被称为‘尊攘’实践第一步的制度。这归根究底来说,就是对抗暗中活动的长州藩,后期则为萨长联合的志士们,死守当下制度的特别警卫队之职。此点来看,再没有比不包含任何资产阶级要素,将多摩农村的封建根源百分百武装后组建的,试卫馆独裁之下的新選组更加适合,更加认真,更加卖力的组织了。”正如他所言,新選组执行着一个特殊警卫队的工作。
新選组故事的源泉来自于其活跃的史实。新選组在京都进行的监察活动,影响的不仅是京都,更动摇了全日本。而这一切活动的开始,都来源于新選组被幕府任命为特别警卫队之后。
但是,司马先生笔下的近藤与土方都对于自身被视为警察之事抱有厌恶感。《燃烧吧剑》中,在池田屋事件后,做为奖励,幕府打算给与近藤勇与力上席的身份之处的描写如下。
(土方)“与力什么的,简直是愚弄人”。
的确是愚弄人。与力虽说是直参,一直以来都是任地采用的官员,无法世袭,地位等同于不能直接谒见将军的下级武士。不仅如此,与力的专职是抓捕犯人,没有军役的义务,在武家社会被轻视为“不干净的官吏”。新選组被视为单纯的警察机构而不是军队,意思也就差不多了。
幕府只将新選组看做警察机构。这对近藤而言相当可笑吧。
近藤以志士自称,新選组的最终目标也是攘夷。且不论其本意如何,这是他对内对外都反复声明过的事情。可以说,新選组是军人的集团。
故此,对近藤和岁三来说,池田屋事件之后最大的不愉快,恐怕就是只被幕府当成警察来看待吧。他们没有得到相应的评价。
此外,司马先生在别的文章中也写到了“百姓出身的近藤和土方”“此二人对于自己的出身抱有多大的自卑感,就对武士道有多严苛的美学意识”“新選组的队士们,不仅是近藤,土方,大家都憧憬成为武士。运气好的话也许能够成为旗本。旗本不同于萨摩长州的陪臣,是武家中的武家。他们抱着这种想法,将希望寄托于手中的剑上聚集于此。我猜想,新選组那种异常的活力的根源,是否就来自于这种暗暗的期待呢。”
归根究底,武士是作为天皇或公卿们的保镖,守护王权镇压叛乱的存在而登上历史舞台的。在此后的激烈的合战反复交杂的时代,武士做为军人的职能也突现出来,但当武家政权进入安定期后,战争骤减,能够体现武力价值的工作基本上都限于治安上了。对于文治时期的政府来说,治安的确只不过是繁多的工作中的一环,地位也不会很高。因此,“百姓出身的”近藤勇和土方岁三(《燃烧吧剑》中的近藤·土方)才会有,只有从事于战斗的军人才是真的武士,担当治安的警察职责的武士就略逊一筹的误解。被任命了守卫京都治安的新選组,既不是原本负责京都治安管理的会津藩的藩士,也不属于幕府直属的旗本。新選组是一个非常时期的,超出法规的组织。正因为有了这样的警察组织,“百姓出身的”近藤,土方等人才能够最大限度无所顾忌的活跃。
原文
特別警備隊―新選組
大衆人気という点では、新選組は赤穂浪士に比肩できよう。司馬遼太郎氏は、「二人ともその最期はみごとだった。武士にあこがれた彼らは、事実、日本最後の武士として、武士らしく死んだ。男として、やはり幸福な生涯だったといえる。」といい。近藤と土方の二人に「ラストサムライ」というような替辞を送った。
人気の理由について、尾崎秀樹氏は「彼らにステータスなものへの夢があったことは疑えない。それだけに徳川家に殉じるかたちとなり、その悲劇性を倍増させた」、「尊王一辺倒だった戦時中においても、近藤勇や土方歳三は変わらない人気を保つづけた。一種の判官びいきが作用したためでもあるが、いずれにせよ大衆の間に語り続けられた新選組の印象は、歴史家の評価とは異なった像を結んだといえる」と分析している。
なるほど、滅んでいく徳川家に殉じたヒーローに同情が注がれるか。同じ幕末、凄腕の剣士といわれた、土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、大和十津川の浦啓輔、肥後の河上彦斎(あの人気漫画の主人公、流浪人剣心のモデルとされた人物)等はどちらいえば、みな革新側にいた人間である。人気の原因は、政治信条ではなく、ひたむきな姿によるようだ。もう少し詳しく言えば、どんな信念をもっているかより、よにかく自分の信ずる道をひたすら突き進み、阻むものを倒し、世を揺るがすほどの実績を作り出したにもかかわらず、生前にはあまり評価されなかったというような人物が日本人に好まれるようである。
服部之総氏は、「この日(池田屋事件)以後近藤勇の新選組には、攘夷遷延のゆえに幕府当路を責めることよりもなによりも、さしあたり第一、「尊攘」実践のための第一前件と考えられた公武合体そのものを死をもって護る使命が課せられた。それはさしづめ「長州」の、やがては「薩摩」のくらやみの使徒にたいして現制度を死守する、特別警備隊の仕事であった。ブルジョア的要素に一筋の連結を持たぬ、多摩農村の封建的根底部分を百パーセント武装化した、使衛館独裁下の新選組ほど、この任務のために不敵、真剣、精励たりうるものがおよそ他に考えられようか。」と分析している。進歩史観からみれば新選組は間違いなく反動的な組織になる。役割という点においては、まさに氏のいうように、新選組は一種の特別警備隊の仕事をしていたのだ。
新選組物語の源泉は新選組が活躍した事実である。新選組が京都で行った取締りは京都のみならず、日本全土を震撼させた。その行為を可能にしたのは、新選組が特別警備隊として幕府から任されたからである。
ただ、司馬氏の筆によれば、近藤と土方は自分たちが警察として見られるのが嫌っていたようである。「燃えよ剣」の中、池田屋事件の後、幕府はご褒美として近藤勇に与力上席というポストを与えようとしたところ、次の文が綴られている。
(土方)「与力なんざ、ばかげている」
たしかにばかげている。与力というのは直参にはちがいないが、元来の素性は地付役人で一代限り。しかも将軍に拝謁の資格のない下士で、御家人並である。その上、捕物専門職で、軍役の義務がなく、武家社会から「不浄役人」として軽蔑された。軍人ではなく純警察官であると思えば、遠くない。
幕府は、新選組を警察官とみた。近藤にすれば、片腹いたかったろう。
近藤は、志士をもって任じている。新選組の最終目標は、攘夷にあるとしている。本心は別として、それは何度も内外に明示している。いわば、軍人の集団なのだ。
近藤と歳三の、事件後の最大の不愉快は、幕府から、警察官としてしかみられなかったことだろう。評価が、小さい。
いっぽう、司馬氏は、別の文章の中で、「百姓あがりの近藤、土方が」「出身についての劣等感があっただけに、必要以上に士道的な美意識をこの二人はもっていた。」「新選組の隊士は、近藤、土方だけでなく、みな武士になりたがった。その希望を一剣にかけてかれらは集まってきた。あわよくば旗本になれる、と考えていた。旗本こそは、薩長などの陪臣とはちがい、武家のなかの武家であった。新選組の異常なエネルギーの根源には、こういうひそかな期待があったのではないか。」とも書いている。
そもそも武士は、天皇や公卿のボディガードとして王権を守り、反乱を鎮めるために歴史の舞台に登場したのであった。のちに、繰り返された熾烈な合戦が軍人としての武士の役割を突出させた時期もあったが、武家政権の安定期に入ったから、戦がめっきり減り、武を表現する仕事はまたほとんど治安だけになった。たしかに、文治政府の中、治安は政府の夥しい仕事の一部に過ぎず、その位置づけもそう高くない。そこで「百姓あがりの」近藤勇や土方義三(「燃えよ剣」の中の近藤、土方)の、戦闘に従事する軍人としての武士が真の武士であって、治安に当たる警察としての武士は一段格下だという誤解が生じた。京都治安を任された新選組は、本来京都治安を担当する会津藩の藩士ではなく、また幕府直属の旗本でもない。新選組は一種の、非常期の超法規的な組織である。こういうような警察組織があってからこそ、「百姓あがりの」近藤、土方らが縦横無尽に大暴れすることができたのである。