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文章字数: | 字 (由Word统计) | 文章格式: | Doc.docx (Word) | 更新时间: | 2017-11-28 |
译文:学校的“精细化”和家庭的“精细化”
关于我们孩子的教育问题,从出生的那一刻开始——有时甚至是从出生之前开始——就变得神经质的家庭越来越多,被认为是最近盛行的现象,那是与现在这样的育儿环境相对应的。在社会史上,把这样的家族称为“教育家族”,例如江户时代的武士阶级等,虽然我国有一部分家族从过去开始就非常热衷于孩子的教育问题,但庶民对孩子的教育问题变得那么神经质一样地热衷的年代并没有那么久远。庶民不得不意识到孩子的教育问题就像上述所写的,地域社会所存在的能把孩子自然培育的人际关系和场所都没有了,各种维持生活的习俗消失了,劳动形态也变成薪金制职工化,父母不能再要求孩子帮忙工作,家庭的意识性教育•教育内容都一下子增加,要把孩子教育到那种程度,必须要用别的原理与理论进行。
那样考虑的话,如果家庭不能把孩子教育得非常出色,就称之为“家庭的教育能力衰退”是不正确的。家庭变得被要求过多的教育能力,无法担负起那样的教育能力的家庭,对孩子的教育背负了很大程度上的辛劳与痛苦,也许这样的说法更为正确吧。从那一面来说,虽说家庭不能适当的教育孩子,但那一切就都是家庭的责任,也还是错误的。学校方面批判承担了过多的课题,而且提倡“学校精细化”(经济同友会“从《学校》到《合校》”一九九五年五月),而基本上以同样的原因对于被强加过多的课题,一直被要求努力努力再努力的家庭却不提倡“精细化”是非常可笑的。
而且,学校感到二次性社会化的困难状况,过去有意识性地增加教育内容,但那一点和家庭的若干问题是不一样的。家庭方面,如果养育和教育内容变得过多的话,虽然还是能把那两点很擅长地结合运用自如的家庭,变得热衷但并不一定是能把孩子培育优秀的家庭,或者因为担负过多反而分化成倾向放弃育儿的家庭。作为整体渐渐地会有无法出色地养育孩子的家庭持续增多的倾向。针对这一点在学校即使教育课题增多,在意识上也能接受,相比在家庭却不能一概而论,可以说有本质的差别。
从那一点来说,针对孩子面对的由于社会地域引起的问题,学校面向社会道歉,虽然学校通过努力想解决问题的事情受到社会上各种各样的批判,但在当前可以说是合乎道理的。学校方面深知在很多场合,虽然原因在于家庭一方,但即便责备家庭那一方,把问题还原给家庭也解决不了问题,有时反而会使得问题更加复杂化。
但是,就像大部分学校的相关人员所认为的那样,作为现象存在的所有问题都要学校解决的话,反而会扩大学校的不讲理,使学校陷入狭小的境地。比如说,虽说教育在家庭不能进行的很顺利,学校甚至还要接受通常在家庭里应该接受的类似社会化训练的教育项目,即使那是以善意为前提的想法,但会使学校所要接受的问题无限制地扩大,使得教师的负担的责任感越来越重。
换句话说也就是,把所有的责任都强加给家庭的理论也是不负责任的,会使问题复杂化的,但毫不限定所谓的,学校应该全盘接受的学校责任的理论也是解决不了问题的(那一点在“学校精细化论”里面是有根据的)。
那么,家庭方面应该怎么做呢?家庭难道就不需要以同一种理由“精细化”了吗?理论上必须应该是那样的,说到这一点,在日本依然认为家庭本来就应该是最好的社会化的场所。家庭才是应该恢复“教育能力”的论点再一次占了优势。当然削减父亲们工作的劳动时长,可以使他们能够早点回家等的条件改善的课题还有很多。那些事情的重要性是不可否认的,我们也开始持续的提到那之类的事情。另外也开始指出了战后的父亲论的不存在。那一类的课题有很多,这一点是不容否认的。使我们不禁想问,作为那前提的论点,再一次给家庭强加教育的这一类论调,在当今的社会,难道不能实现积极的机能体系吗?
那么,问题是区分开的吗?其实也不是。那么,哪里为止应该是学校承担的,哪里为止应该是家庭承担的呢?只要改变那条线的划分方法就能解决问题了吗?坦白说我不认为那样就能解决问题。
不错,家庭是孩子精神上被逼到窘境的原因,受到沉重的压力的困扰的事例并没有绝迹。打心底里希望那样的家庭要好好坚持住。但是,只要我们希望那样的家庭的父母要好好坚持住就能坚持住了吗?恐怕变得相反的事情也不在少数吧。如果想要用个别的责任去解决构造性发生的事情,事态反而会更严重。比起那些没有被赋予社会性条件的家庭更容易造成牺牲。
根本问题是,至今为止作为二次性的社会化而盛行的孩子的个性形成的部分在地域社会中变得无法完成,因此家庭和学校就必须承担抚养孩子的责任,无论哪一方都必须变得非常努力努力。因此把责任强加给他们中无论哪一方都解决不了问题。
然而返回以前的旧社会是不可能的。我们能做的事只是,在今天的条件下,不得不为承担二次性的社会化而创造新的环境和条件吧。既不把所有的责任都强加给家庭,也不对学校有过分的期待,我们要把这两者结合在一起,在摸索出能兼任牵线搭桥作用的第三个方案之外,就没有能解决现在孩子所抱有的种种进步上的问题的道路了。
原文:学校の「スリム化」と家庭の「スリム化」
わが子の教育について、生まれた瞬間から——時には生まれる前から——神経質になる家庭が増えてきたのははごく最近の現象といってよいと思われるが、それはこうした育児環境の変化に対応したものである。社会史ではこのような家族を「教育家庭」と呼んでいるが、たとえば江戸時代の武士階級など、わが国でも一部の家族は昔からわが子の教育に熱心であったにしても、庶民がわが子の「教育」について神経質なまでに「熱心」になるのはそんなに旧いことではない。庶民がわが子の教育に意識的にならざるを得なくなったのは、以上述べてきたように、地域社会に存在していた子供が自然にそだって行くための装置のような人間関係や場がなくなってきたり、生活のさまざまな支え合いの風習が崩れたり、労働形態がサラリーマン化して子供に親の仕事を手伝わせられなくなったりして、家庭の意識的な教育•しつけ項目が一挙に増加し、わが子の育児をそれまでとは別の原理や論理で行わねばならなくなったからである。
そう考えれば、仮に家庭が子供をうまく育てられなくなったからといって、それを「家庭教育が衰退下」というのは不正確であり、家庭に過剰な教育力が要求されるようになって、それを担いきれない家庭が子育てに大変な苦労を背負うようになった、というのがより正確という事になるだろう。その面からいえば、子供を適切に育て切れなかったからといって、それを全面的に家庭の責任にするのは、やはり間違っている。学校が過剰な課題を担いすぎていることが批判されて「学校のスリム化」が提唱されているのに(経済同友会「『学校』から『合校』へ」一九九五年五月)、基本的に同じ原因で過剰な課題を押し付けられてアップアップしている家庭に対して「スリム化」が提唱されないのはおかしい。
もっとも、学校は二次的社会化が困難になってきた状況を直感して、むしろ意識的に教育項目は増やしてきた歴史があり、その点で家庭とは若干事情が異なっている。家庭の場合には、養育やしつけ課題が過剰になってくると、それを上手にこなす家庭、熱心にはなるが子供を上手に育ているとは必ずしもいえない家庭、あるいは逆にそれを担いきれず育児放棄に傾く家庭などに分化していく。全体としては次第に子供をうまく育てきれない家庭が増えていく傾向があるが、学校では教育課題が多くなってもそれを意識的に引き受けようとしてきたのに対して、家庭ではそれが一律ではないという点で、質的な差があるともいえる。
その点から言えば、子供が地域社会で引き起こした問題に対して、学校が社会に向ってあやまったり、学校の努力で解決していこうとすることはいろいろ批判があるが、さしあたり理にはかなっているといえる。多くの場合、原因が家庭にあるからといって、家庭を責め、家庭に問題を還元しても解決しないし、時には問題をかえってこじらせてしまうということを、学校はよく知っているからである。
しかし、学校関係者の大部分が感じているように、現象として生じている諸問題をすべて学校を解決しようとすることは、逆に学校の無理を拡大し、かえって学校を窮屈な場にしてしまう。たとえば、しつけが学校でうまくできないからといって、通常は家庭で社会化訓練を受けるべきと思われるようなしつけ項目まで学校が引き受けると、たとえそれが善意からの発想であったとしても、学校の引き受ける事柄を無限に拡大することになり、教師の仕事の負担感をどんどん増してしまう(その点で「学校スリム化論」には根拠がある)。
つまり、家庭にすべての責任を押し付ける議論も無責任であり問題をこじらせてしまうが、学校がすべてを引き受けるべきであるという学校責任を無限定にする議論もまた、問題を解決しないということである。
では、家庭はどうであろうか。家庭も同じ理由で「スリム化」されなくてはならないのではないか。論理的にはそうなるはずであるが、この点になると、日本では依然として家庭は「本来」最もよい社会化の場であるはずだということで、もう一度家庭こそ「教育力」を取り戻すべきであるという議論が優勢になってしまう。もちろん父親の長時間労働を削減して家庭に早く帰れるようにするなど、条件改善の課題はたくさんある。そのことの重要性は否定しないし、私などもそういうことを言い続けてきた。また戦後の父親論の不在指摘してもきた。そういう課題がたくさんあることは否定しないが、その前提となる議論として家庭に教育責任をもう一度押し付けることになるような論調は、今日の社会では積極的な機能を果たさないのではないか、と問いたいのである。
では、問題は「線引き」かというと、そうでもない。どこまでが家庭でどこまでが家庭や地域社会が引き受けるべきことか、その線の引き方をかえれば問題は解決するかということであるが、率直にいってそれでは問題は解決しないと思う。
確かに家庭が原因で子供が精神的に追い詰められたり、すさまじいストレスを抱え込んでしまっているような事例はあとをたたない。そうした家庭にはしっかりしてほしいと心から思う。しかし、だからといって、そうした家庭の親にしっかりしてほしいと迫ればしっかりするかというと、おそらく事態は逆になってしまうことが多いだろうということなのである。構造的に起こっているこことを個別の責任で解決しようとすれば、事態はかえって深刻化する。社会的な条件に恵まれていない家庭ほどその犠牲になりやすい。
問題の基本は、これまで二次的社会化として行われてきた子供の人間形成の部分が地域社会の中では遂行されなくなってきていて、それを家庭と学校が肩代わりせねばならなくなり、どちらもアップアップしていることになる。そのどちらかに押し付けあっても問題は解決しないのである。
昔の社会に戻すことは不可能である。私たちにできることは、今日の条件のもとで、二次的社会化を担う新しい環境や条件を作り上げることしかない、ということにならざるを得ないだろう。家庭にすべてを押し付けるのでもなく、学校に過剰な期待をするのでもない、ろれらの二つを上手に橋渡しすることをかねた第三の解決プランを模索する以外に、今日の子供たちが抱えた種々の発達上の問題を解決する道はないのである。