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文章字数: | 字 (由Word统计) | 文章格式: | Doc.docx (Word) | 更新时间: | 2017-11-28 |
译文:“福在内,鬼在外” 内与外
节分撒豆的时候经常听到的“福来鬼去”的祈福语,十分好的表达了日本人内与外的意识。就是喜欢的好的东西引进来,讨厌的不好的东西排除出去的愿望。平日我们经常能看到把家里的垃圾或者庭院的垃圾扫出去。在对人方面,因为自己人和外来人的不同,外来人成为自己人前需要很多的努力和时间。内与外的区别意识,虽然所有的社会都有,但是在日本社会两者的对立却是特别显著。
1、“内”与“外”是什么
“内”与“外”因为有物理空间的内外意思,所以在社会学和文化人文学上一般多数用日本的片假名来表示。考虑到日本文化的特征,“内”与“外”在《社会学事典》的定义是“日本文化中,以自我为中心的里面和外面、以家族、所属集团等为基准的内集团与外集团间的对比态度的公用语。”这里比较重要的事,“内”与“外”意味着像“内集团”“外集团”的团体类别和在人际关系的关联意识和规范。空间与心理相交错的“内”日常用语代表着“家”“家里的人”“自己的学校”“自己的公司”等词语,相比与“外”相对应的词就是“外人”“外面”“外向”等。更进一步说,“内”与“外”的对比意识跟日本“真心话”“客套话”的交流规范有着密切的关系。
2、内、外、别家的三重意识构造
临床心理学者的中山治在“内”与“外”的一般概念上又添加了“别家”的概念。根据一直分析日本人对人时过敏性或者过度担心着的中山“简单说像有夫妻、父子、兄弟那样密切关系的称为“内”;与自己完全没关系的别人称为“别家”;像学校呀职场呀邻居这些在“内”与“别家”的中间,具有两方面性的人称为“外”,因过度担心在与“外人”交流时,“家人”和“别家人”就有一种弱化感觉,有时甚至什么区别都没了。”虽然这里只是简单的考虑“内”“外”“别家”,但预想中日本人对周围的人就是有着这三重意识构造。用图形表示,像家族、亲友有着密切关系的内集团,比起个人存在比较重视和别人的一体感,追求脱下拘泥形式的外衣赤裸真心相对。而外集团则比较疏远亲戚、邻居、熟人、同事的主要存在,只注重交流、拘泥形式的行动规范。而“别家人”在图中央的个人和没关系的不特定他人集团,像“出门在外,不怕见怪”对人根本就是无关心的。日本人在日常与人际交往中就是这样按照这三种意识构造进行着的。
3、 不能进入的“外人”
像欧美出身的白人代表着的外人属于“别家人”,日本人虽然意识到但也表示比较冷淡的态度的。几次他们进入日本人的外集团,日本都表示过度的亲切,使外人有着进入天堂的感觉。但是想更进一步进入内集团,却被贴上“奇怪的外人”标签,去融入时经常能感到有些看不见的障碍。
这样,虽然阐述了 “内”与“外”的概念,但是今后在异文化和交流方面的研究却变得更困难的问题了。
“组织文化”的领导与领导力
“说起日本社会灿烂的领袖,不是说以个人之力形成的集团,而是说跟其他集团有关系的优势集团中抓住时间脱颖而出的比较有能力的人。”中根千枝是这么描述的。
我们经常可以听到的是,领袖以个人力量掌握领导力是欧美流,而日本流是像神一样的集团担任领导的两个社会论,虽然很容易明白,但是无论是日本还是欧美,其实都不是那么单纯的类型化的。
很多研究都指出,美国职场的上下关系,一般来说讲民主的上司是有能力的领导,但是领导的有效性是根据组织内的其他要素(性别、工作的质量、气氛),只是这样断定是不适当的。因此,说起美国的有效领导力当然不是专制的上情下达型的,也不能判定是民主型的。日本的组织也并不是简单集合担任领导。那里也有根据能力竞争的原理。山田雄一更是超越日本和欧美的领导力类型化,与重搞了马基雅吉里和松代藩财政的恩田木工共通了。
单从一个文化来看领导力的类型化是比较困难,在异文化中的领导力就更包含了极为复杂的要素了。这里,商讨一下沙因的比较新的考虑方法。沙因探讨的不是组织成员所持有的文化问题,而是组织本身的文化。反过来说,正是这个成了考虑异文化领导力的头绪。
沙因主要探讨了关系到组织文化的创造、发展、改革的过程的领导的职责。组织文化是说,以发展组织的过程积蓄起来的基本的行动原理。据沙因说“领导力的唯一并且本质的机能是操作组织文化。”也就是说,在组织的创造期,领导自己不得不把领导力客观化、明确的表明出来,并且持有强制的能力。还有在组织的改革期,领导要达到“一个熟练的改革管理者必须做到首先学习组织文化的现状,消化吸收它,再定义、改革它,这样就能得到新的知识原理的要求”。
虽然组织文化是比较难理解的概念,但我们可以把它和个人或者文化本身进行比较。人的行动经常受到无意思的东西的规定,文化中同样存在“隐藏类型”,这一隐藏类型无意识地规定处在该文化中的人的行动。组织也同样包含了没有被意识到的原理,而组织的行动正是基根于此。所以沙因才说,领导不得不有意识地了解那原理,并且操作组织文化。
原文:「福は内、鬼は外」 ウチとソト
節分の豆まきの時に聞かれる「福は内、鬼は外」の祈願のことばは、日本人のウチとソトの意識をよく表している。好ましいものをウチに招き入れ、好ましくないものをソトへ排除しようという願望である。ウチのごみをソトに掃きだし、庭のごみをさらにソトに掃きだす掃除の手順は、日ごろよく見られるものである。日常の対人関係においても、ウチの者とソトの者の区別がなされ、ソトの者がウチの者として認められるには、多くの努力と時間が必要である。ウチとソトの区別意識は、いずれの社会にも認められるが、日本社会では両者の対立が特に著しいを考えられる。
1、 ウチとソトとは何か
「ウチ」と「ソト」という用語は、物理空間的な「内」と「外」以上の象徴的な意味を持つため、社会学や文化人類学では片仮名で表されることが多い。日本文化の特性を考慮した。『社会学事典』の定義によれば、「ウチ」と「ソト」とは、「日本文化において、自我を中心とした内面と外面、家族や所属集団を基準とした内集団(in group)と外集団(out group)への態度の対比をとらえる通用語である」。ここで大切な点は、「ウチ」と「ソト」という用語は、「内集団」と「外集団」のような集団の類別と対人関係に関連した意識や規範を意味していることである。空間と心理が交錯した「ウチ」は、「ウチ」「ウチの人」「うちの学校」「ウチの会社」などの日常用語で代表され、対照的な「ソト」に関連した用語としては、「ソト者」「ソト面」「ソト向き」などがある。さらに、ウチとソトの対比意識は、本音と建前のコミュニケーション規範とも密接に関連している。
2、 ウチ・ソト・ヨソの3重意識構造
ウチとソトの一般的概念を一歩発展された臨床心理学者の中山治は「ヨソ」の概念を加えている。対人関係における日本人の過敏性や過剰配慮を分析している中山によると、「便宜的に夫婦、親子、兄弟といったような密接な間柄をウチ、自分とは全く無関係な赤の他人をヨソ、学校や職場、近隣の人々といったウチとヨソの中間的、両義的な性格をもつ人々をソトと呼称した場合、過剰配慮はソトの人々とコミュニケーションする際に最大となり、ウチやヨソの人に対してはそれは弱まり、時には全く消失する」。このウチ・ソト・ヨソの概念から便宜的に考え出されたのが、図の「周囲集団に対する日本人の3重意識構造」である。家族や親友のような相互に密接な関係のウチ集団の中では、点線の円が示すように、個人の存在より他との一体感が重視され、堅苦しい衣をぬいだ裸でホンネを出す関係が求められる。その外側のソト集団では、比較的疎遠な親戚、隣人、知人、同僚などが主な存在であり、相互に強く意識し合い、タテマエの規範で行動するのが一般的である。ヨソ大衆は、中央の個人とは無関係の不特別他人集団であり、「旅の恥はかき捨て」が示すように、存在をほとんど無視される。日本人は、この3重意識構想に従って、日常の対人関係を続けているといえる。
3、 ウチ集団に入れないガイジン
欧米出身の白人に代表されるガイジンがヨソ大衆に属している間は、日本人は意識をしながらも比較的無関心な態度を示す。何かの機会で彼らをソト集団に入れると、日本人は過剰に親切にして、ガイジン天国を作る。しかし、ウチ集団に入ろうとする彼らに対しては、「変なガイジン」のレッテルをつけ、目に見えない障壁で入るのを妨げるのが通例である。
以上、ウチとソトについて述べたが、これは異文化とコミュニケーションのうえで今後いっそう困難な問題となる。
「組織文化」のリーダーとリーダーシップ
「日本社会における輝かしいリーダーというのは、そのリーダー個人の力によって集団を形成しているのではなく、もともと他の集団との力関係において優勢であった集団に、比較的有能な個人がタイミングに恵まれて(中略)出てきた、というものである」と中根千枝はいっている。
リーダー個人の力によってリーダーシップを握るのが欧米流であり、オミコシのように集団に担がれるのが日本流のリーダーであるとの比較社会論は、よく耳にするところであり、わかりやすいが、事実は、日本においても欧米においても、それほど単純な類型化を許すものではなかろう。
たとえば、アメリカの、職場の上下関係に関する研究では、一般的には「民主的」な上役が有能なリーダーとされるが、他方、リーダーシップの有効性は、組織内の多いの他の要素(たとえば、性別、仕事の質、雰囲気)によるので、そのような断定は適当ではないとする研究も多い。したがって、アメリカの有効なリーダーシップが、専制的上意下達型ではないのはもちろんだが、「民主型」だとも断定はできない。日本の組織もただ揃ってリーダーを担いでいるわけではない。そこには能力にもとづく競争原理もある。さらに、山田雄一は日本と欧米の対立的類型化を超えて、マキアヴェリと、松代藩財政の立て直しをした恩田木工に共通のリーダーシップを見ている。
1つの文化におけるリーダーシップの類型化が困難であるとすれば、異文化組織のリーダーシップはきわめて複雑な要素を含むことになる。ここでは、比較的新しいシャインの考え方を検討しよう。シャインは、組織の成員が持つ文化を問題にするのではなく、組織そのものの「文化」を論じている。逆説的ながら、これこそが異文化リーダーシップを考える手掛かりになると思う。
シャインは「組織文化」の創造、発展、変革とそのプロセスにかかわるリーダーの役割を主に論じている。組織文化とは、組織が発展のプロセスで蓄積してゆく、基本的行動原理である。シャインによれば「リーダーシップの唯一の、そして本質的機能は(組織)文化を操作することである」。すなわち、組織の創造期には、リーダーは自分のリーダーシップの理念を客観化し、明確に表明し、強制する能力を持たねばならない。また組織の変革期においては、リーダーは「まず(組織)文化の現状を学び、それを解凍し、再定義し、変革し、その上で新たな仮定(原理)を再凍結する熟練した変革管理者であることが要求される」。
「組織文化」とは少々解りにくい概念であるが、これを個人あるいは文化そのものと比較してみよう。個人の行動がしばしば無意識なものによって規定されるように、また、文化には「隠された型」があって、それがその文化に生きる人間の行動を無意識に規定しているように、組織にもそのような、意識されない原理があり、組織の行動はそこに根ざすものである。したがって、リーダーはその原理を意識的に知り、組織文化を操作しなければならぬ、とシャインはいうのであろう。