大江文学的战争观-以《拔芽击仔》和《个人的体验》为中心[日语论文]
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大江文学的战争观-以《拔芽击仔》和《个人的体验》为中心[日语论文]
大江文学の戦争観―『芽むしり仔撃ち』と『個人的な体験』を中心に

摘  要
进入21世纪以来,围绕着几十年前发生的那场日本发动的侵略战争,作为在那场战争中都深受伤害的亚洲邻国中日韩好像又进入了胶着状态,日本的首相参拜供奉了甲级战犯的靖国神社问题,钓鱼岛和竹岛的归属问题以及教科书问题等等都在刺激着中韩两国的神经。
以笔者来看,作为民主主义者的大江健三郎的战争观才是身为一个在二战中给别国以及自己国家都带去伤害的日本人应有的观点。本论文主要通过对《拔牙击仔》和《个人的体验》这两部小说的分析来论述大江健三郎的战争观的。笔者所选的这两部作品中关于战争的描写其实并不多,但是,为什么笔者却选择这两部作品呢?是因为在大江目前为止的整个创作生涯中,这两部作品有着重要的地位。前者是作为大江前期作品的集大成而被广泛认可的,并且以此为界限,大江的文学创作进入了第二期。而后者则是由第二期进入第三期的分水岭,正是由于残疾儿的这一特殊体验,大江才真正突破了萨特的影响,使创作具有了个性。另一个原因就是两部作品分别完成于1958年和1964年,离结束于1945年的那场战争并不遥远,战争无可争议的成为了小说的时代背景。
本文首先分析两部作品中的人物形象(即少年和残疾儿形象),创作手法(即互文)和独特的文体(大江式私小说)。其次,论述本论文中战争一词的两层含义。第一层是相对于和平而言的战争,即国家与国家间的战争。第二层含义的战争是一种形而上的理念,即面对自我性格的两个相反的方面的自我的战争。其一方导致毁灭,另一方走向重生。最后,从战争一词的这两层含义出发,论述大江健三郎的战争观。
关键词:大江健三郎  战争观  少年和残疾儿 互文 大江式私小说

要  旨
21世紀に入って以来、数十年前に挑発されたその日本侵略戦争をめぐって、その戦争で深い傷害を受けたアジア隣国としての中国、日本と韓国がまた膠着状況に入ってきたようである。甲級戦犯の位牌を祀った靖国神社参拝問題、尖閣列島や竹島の所有問題及び教科書の見直し問題は中韓両国に刺激を与えた。
筆者から見れば、民主主義者である大江健三郎の戦争感は第二次世界大戦で他国と自国に大きな傷をつけた日本人として持つべき見方だと思う。本稿は主に『芽むしり仔撃ち』と『個人的な体験』の分析から、大江健三郎の戦争観を論述するのである。筆者の選んだその二本の作品の中で戦争についての描写がそれほど多くないのである。それにしても、『芽むしり仔撃ち』と『個人的な体験』を選んだのは、今までの大江氏の創作生涯で、二作は大切な役割を果たしているからである。前者は大江氏の前期作品の集大成として大いに受け入れられている。その上、それを堺に大江氏の創作が第二期に入った。後者は第二期から第三期に入る分水嶺となるものである。脳ヘルニアのある障害児を持つその実体験があってはじめて、大江氏はサルトルの影響を突破し、個性を持つようになった。それ以外に、その二つの作品はそれぞれ1958年と1964年に書かれたので、ともに1945年で終わった第二次世界大戦とは時間的に遠くなく、戦争が小説の時代背景になったのは言うまでもない。
本稿はまず作品の中に出てきた人物(少年と障害児)、創作手法(間テキスト性)と独特な文体(大江式私小説)を分析する。それからは上文の原稿についての分析に基づいて、本論文での戦争という単語の二重の意味を論述する。第一は平和と対応する戦争である。つまり、国と他国の間に行う武力闘争を指すのであった。第二の意味は形而上的なのであった。簡単に言うと、自我の互いに対立する性格側面に対したときの自我の戦争である。その一方は闇に導るのに対して、もう一方は再生に向くのである。
最後にその二重の意味から、民主主義的な戦争観と本当の人間になるために自我を突破するという戦争観をはっきりした。 
キーワード:大江健三郎 戦争観 少年と障害児 間テキスト性 大江式私小説

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