选题背景与意义
授受動詞は日本語の特徴の一つであり、中国語にはぴったり対応するようなものがないので、中国の日本語学習者にとって、習得の難しい学習項目の一つであると思われている。それに、場面や相手などの要素を考えれば、授受動詞以外に、授受補助動詞や待遇形などの使い方が生み出され、より複雑になる。一種の対人関係の表現と見なされる日本語の授受表現を用いるべきところに用いなかったり、使い方を間違えたりすると、関係人物に対して失礼であろう。
授受動詞に関する研究は非常に豊富である。これまでの研究は視点、方向性、恩恵性などの角度から把握されることが多い。
森田(1998)は、古来、日本人は話者自身を指す「私」の視点で周りの物事や人物を捉えて、常に己との関係で自分を取り巻く対象を把握し、そのような対象とは客観的な存在としての物事ではなく、あくまで自分とどのような関係にあるかによって存在の意味を持つ「私」中心の観念であったといってもいいと述べている。また、森田(1995)によると、授受表現は極めて話者の意識が濃厚に現れる言い方で、聞き手となる相手との関係や、話になる登場する人物や物事との関係などを、常に自分の視点から捉えて、その捉えた立場で文章や談話が綴られるそうである。
庵功雄や高梨信乃(2001)などは授受表現の方向性については「~てやる、~てあげる」は話し手からの遠心的な動きに対して用いられ、「~てくれる、~てもらう」は話し手への求心的動きに対して用いられるという方向性を持つと述べている。
豊田(1974)は松下大三郎氏の「利益態」の概念を利用し、授受表現の恩恵性を「自行他利態」「他行自利態」「自行自利態」と三つの類型に分けて述べた。「自行他利態」とは、自分が行動して他人に利益を与える場合で、「~てあげる」「~て差し上げる」は「自行他利態」の客体尊称である。「他行自利態」とは、他人が主体になって、自分に利益を与えるように行動する場合を指し、「~てくださる」は「他行自利態」の主体の尊称である。「自行自利態」とは、実際に行為をするのは自分ではないが、「もらう」主体が自分である場合、「~ていただく」は「自行自利態」の客体尊称となると述べている。
中国語の「给」についての研究も少なくない。朱(1979、1982)によれば、中国語には「受給者」を導く動詞の「给」と、「受益者」を導く前置詞の「给」があると指摘している。山田(2002)によると、中国語では、物の受け渡しに関わらず「给」は広く受益者表示に用いられる。呂(1980)は、「给」が「使对方得到」(相手に得させる)という意味で、多岐の意味の事態と共起すると述べている。
奥津(1984)は中国の授受動詞は日本語より簡単のようであって、特に給与動詞は「给」一つで、日本語の「くださる」「くれる」「さしあげる」「あげる」「やる」の五つに対応している。つまり<与え手>主語というだけで、尊敬や非尊敬の区別とか、身内やよそものの区別がないのであると述べている。更に、奥津は日本語で取得動詞であるのに、中国語では給与動詞に訳す場合もあり、日本語の授受補助動詞にぴったり対応するものは、中国語にはないようであるとも述べている。
鄭愛莉(1993)は、「给」が授受動作の受け手を導き、恩恵の感情色彩に伴って使われると指摘し、方向性を示すために動作の受け手であるものをその後ろにくっつけるという点で、日本語の授受表現を違って、「给」自体は感情色彩を現せないと主張した。
本稿の目的は、日本語の授受動詞と中国語の「给」を研究の対象にし、それぞれの意味的特徴や文法的特徴及び互いの対応関係を明らかにすることである。日本の授受動詞及び授受補助動詞と中国語の「给」における相違及び対応関係を明らかにするため、「授受動詞」と中国語の「给」、日本語の授受補助動詞文と中国語の「给」構文を考察してみたい。なぜ主として中国語の「给」と選んだと言えば、「やる」「あげる」「くれる」文及び「てやる」「てあげる」「てくれる」文は中国語の「给」構文に訳されるし、「もらう」及び「てもらう」文はただ中国語の「得到」構文に訳されるだけではなく、中国語の「给」構文に訳されることもできるからである。