1.『菊と刀』 ルース・ベネディクト 中国社会科学出版社 2008
終戦直後の1946年、アメリカ人の人類学者:ルース・ベネディクトによる本書は、日本人の外面的な行動描写と、その行動背景にある日本人の基本的な考え方(日本文化の型)の分析から成る。
本書は1944年6月に、著者が日本人はどんな国民であるかということを解明するために、文化人類学者としての研究技術を利用するように依頼を受けたもので、ちょうど太平洋戦争真っ只中、交戦中の日本人の行動原理を深く理解するという目的があった。まさに「敵を知る」ための重要な書であった。
本書は文献調査だけでなく、日本人に対する直接ヒアリングに大いに依存しており、その詳細記述は確かにリアルで細かく、当時の日本文化論としては画期的な内容だったと思う。しかも、敵国の文化をできるだけ客観的に分析しようとしているのがひしひしと伝わってくる。
もちろん意義を唱えたくなる点もあるが、当時の時代背景とアメリカ人による比較文化論であることを考慮に入れても、今読んでも十分楽しめる内容になっているのは確か。アメリカ文化を基準に、様々な相違点が述べられているので、非常に意味わかりやすい。
詳細内容は割愛するが、「国際間の摩擦と不和とは民族相互間の理解の欠如から起こる。」という著者の信念のもと、よくここまで、調査・分析できたなと感心できる内容に仕上がっている。
2.『人と人との間』 木村敏 東京弘文堂 1972
木村はドイツに留学してドイツ人の鬱病患者を診察した。鬱病の大きな特徴に患者が罪責感を持つことがある。
ドイツ人のそれは神との関係において大きな罪を犯したという罪意識である。に対して日本人のそれは他の人と人との関係において、その関係を損なうのっぴきならないことをしてしまったという罪責感である。これに木村は日本人と西洋人の自我のあり方の違いを直感した。 『われわれ日本人』 に表わされている日本人の集合的アイデンティティーが、西洋人の、それと違って個人的レベルのものではなく、超個人的な血縁的、それも血縁史的なアイデンティティーであるということ、ただし、ここで『血縁史的』といっても、それは決して、歴史的な『タテ』の面だけに着目してよいというものではない。むしろ、私がここで最も強調したいのは、このアイデンティティーが個人レベルのものではなくて超個人レベルのものだということである。もっと一般的な言い方をサれば、それは一人一人の個人のアイデンティティーとか、それの集合としての集団的アイデンティティーではなくて、おのおのの個人がそこから生まれてくるような、個人以前のなにものかに関するアイデンティティー、禅でいうと『父母未生己前の自己』に関するアイデンティティーである」、この言葉にならない「父母未生己前の自己」を木村氏は「人と人との問」という言葉で表現されておられるわけですが、この「人と人との問」こそ、私たち日本人の道徳の根拠ともいえるべきものであり、私たちにとっては、欧米の超越的な神に代るべき役割をになっているものだと考えられます。
3.『武士道』 新渡戸 稲造 新渡戸稲造博士と武士道に学ぶ会2004
武士道をしてこの人にこの本を書かせた。近代日本黎明期の明治期の官僚、教育者、軍人、警察官の大多数を内側から支えてきたのが、他ならぬ新渡戸博士の言う「武士道」だった。昭和の官僚、軍人の腐敗の中で叫ばれた「擬似武士道」「ニセ武士道」の下、引き起こされた悲劇を思う時、それらとは一線を画す「武士道」の原点がここにある。キリスト教国以外は、野蛮国であり、近代化は不可能と考えられた当時の欧米列強の予想を覆す、「憲法の制定」「議会の開設」「経済的合理主義」「公平公正の観念」の根源を思う時、古き封建道徳とは異なる燐とした日本人としての誇りを感じる本だといえる。
4.『「甘え」の構造』 土居健郎 商务印书馆 2006
「甘え」は日本人の日常生活にしばしば見られる感情だが、著者は外国にはそれに対応する適切な語彙がないことに気づいた。そんな自身のカルチャーショックから洞察を重ね、フロイトの精神分析、ベネディクトの『菊と刀』、サピア・ウォーフの文化言語論などを比較検討し、「甘え」理論を構築、人間心理の本質を丹念に追究した。
「甘え」は「つきはなされてしまうことを否定し、接近欲求を含み、分離する感情を別のよりよい方法で解決しようとすること」と定義される。
本書では、「甘えの世界」として日本人の精神生活に根ざした「義理人情」などを取り挙げ、その観念体系を説明、「甘えの論理」で言語と心理の不可分の関係を論じた。また「甘えの病理」では「甘え」の延長線上にある「くやしい」という感情を解説し、その病理を「甘えと現代社会」という社会現象論にまで発展させていく。