译文:
有时候,朋友间也会开那种玩笑。一个人说:“真是不可思议。这可能是种病吧。这是老师的秉性,总是对年轻漂亮的女子怀有憧憬。仅仅是觉得那很美。如果换做是我,在那样的时候,可能会立马顺应自己的本能,因为光靠憧憬是无法满足的。”也有人说:“当然了,生理上的某处可能已经沦陷了吧”。“与其说是生理,倒不如说是天性。”“不,我不这么认为。老师年轻的时候,难道不都是顺应自己的想法做事情的嘛?”“你是说,想怎样就怎样?”“这就不言而喻了吧……一个人的时候,过分伤害了身体,长此以往,生理的某方面就会有所缺失,就无法灵肉合一了呀。”“太胡扯了吧”,大家不禁笑了起来。又有人说道:“但是他不是已经有孩子了吗?”先前的男子接过话:“这也是可以生孩子的……我从医生那里听说,这个分很多种情况的。严重的话,会丧失生育能力。这之中也有像老师这样的例子。例子太多了。我可是请教了很多呢。我绝不会判断错的。”“我觉得是天性。”“不,这是病啊。应该多去海边走走,呼吸新鲜的空气,节制欲望。”“但是太奇怪了,如果是十八、九岁,二十二、三岁的话,这样的事也是有可能发生的,有了妻子甚至都有两个孩子了,而且都三十八了难道不是吗?你说生理学是万能的,这也未免太武断了吧。”“不,我这么说是有依据的。虽说十八、九岁才更有可能发生这样的事,但那也不绝对。老师现在也一定在做这样的事。年轻时像那样随意地自命恋爱神圣主义者,嘴巴里的话说的漂亮,但因为不顺从本能,所以不自觉地伤害自己以图快感。并且一旦成为一种习惯,就会衍生成一种病态,继而无法顺应本能的活动。老师一定是这样的。总之,就如先前所说的那样,无法灵肉合一了。虽说如此,你们不觉得很可笑吗?以健全人自居,也被大家认可,如今不仅不健全,还俨然成为了颓废的样本,这就是不顺从本能的后果。你们总是攻击我拿本能即万能来说事,然而实际上,人的本能就是那么的重要。不顺从本能的人只有死路一条。”这人滔滔不绝地说着。
电车驶出了代代木。
春天的早晨清爽怡人。阳光普照,空气也是少有的清澈透明。富士山美丽朦胧的下面是一排排郁郁葱葱的青刚树。千驮谷低地上新建的房屋参差交错,像走马灯一样飞驰而过。然而比起这沉静的自然之美,男子似乎更喜欢妙龄女子那婀娜的迷人姿态,直直地盯着眼前两位姑娘的容貌与身姿失了魂儿。但是比起观赏沉静的自然,显然看大活人要困难的多,这么频繁地看,又怕被对方察觉,就只能装作在看别处的样子,并且眼神像闪电一般又快又敏锐。不知是谁说,在电车里直视女孩,会让人难为情,男子觉得有道理,又觉得刻意回避得很远又会让人感到奇怪,那么就以七分斜对着的角度坐下是最方便的了。男子爱慕少女已经是到了病态的程度,所以这些秘诀自然无需别人教,很自然地就领悟到了诀窍,他从不会放过这样难得的机会。
年长一点的那位姑娘的眼眸真是美啊!星星——就算是天上的星星与之相比,都会黯然失色。从穿着绸织物的修长大腿处,到华丽的淡紫色裙摆,再到踮着白色短布袜的三层踏雪鞋,尤其是那雪白的脖子,一想到那高耸的美丽又丰满的胸部,就觉得浑身痒痒挠似的。长得丰腴的那位姑娘从怀里取出一本笔记本,开始认真地阅读起来。
很快就到了千驮谷站。
原文:
ある時、友人間でその噂があった時、一人は言った。
「どうも不思議だ。一種の病気かもしれんよ。先生のはただ、あくがれるというばかりなのだからね。美しいと思う、ただそれだけなのだ。我々なら、そういう時には、すぐ本能の力が首を出してきて、ただ、あくがれるくらいではどうしても満足ができんがね」
「そうとも、生理的に、どこか陥落しているんじゃないかしらん」
と言ったものがある。
「生理的と言うよりも性質じゃないかしらん」
「いや、僕はそうは思わん。先生、若い時分、あまりにほしいままなことをしたんじゃないかと思うね」
「ほしいままとは?」
「言わずともわかるじゃないか……。ひとりであまり身を傷つけたのさ。その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ」
「ばかな……」
と笑ったものがある。
「だッて、子供ができるじゃないか」
と誰かが言った。
「それは子供はできるさ……」と前の男は受けて、「僕は医者に聞いたんだが、その結果はいろいろあるそうだ。はげしいのは、生殖の途が絶たれてしまうそうだが、中には先生のようになるのもあるということだ。よく例があるって……僕にいろいろ教えてくれたよ。僕はきっとそうだと思う。僕の鑑定は誤らんさ」
「僕は性質だと思うがね」
「いや、病気ですよ、少し海岸にでも行っていい空気でも吸って、節慾しなければいかんと思う」
「だって、あまりおかしい、それも十八、九とか二十二、三とかなら、そういうこともあるかもしれんが、細君があって、子供が二人まであって、そして年は三十八にもなろうというんじゃないか。君の言うことは生理学万能で、どうも断定すぎるよ」
「いや、それは説明ができる。十八、九でなければそういうことはあるまいと言うけれど、それはいくらもある。先生、きっと今でもやっているに相違ない。若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる。先生のはきっとそれだ。つまり、前にも言ったが、肉と霊とがしっくり調和することができんのだよ。それにしてもおもしろいじゃないか、健全をもってみずからも任じ、人も許していたものが、今では不健全も不健全、デカダンの標本になったのは、これというのも本能をないがしろにしたからだ。君たちは僕が本能万能説を抱いているのをいつも攻撃するけれど、実際、人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん奴は生存しておられんさ」と滔々として弁じた。
電車は代々木を出た。
春の朝は心地が好い。日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込んでいた。けれど無言の自然を見るよりも活きた人間を眺めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、悟られてはという気があるので、わきを見ているような顔をして、そして電光のように早く鋭くながし眼を遣う。誰だか言った、電車で女を見るのは正面ではあまりまばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに斜に対して座を占めるのが一番便利だと。男は少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくらいの秘訣は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでもその便利な機会を攫むことを過らない。
年上の方の娘の眼の表情がいかにも美しい。星――天上の星もこれに比べたならその光を失うであろうと思われた。縮緬のすらりとした膝のあたりから、華奢な藤色の裾、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄、ことに色の白い襟首から、あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい乳房だと思うと、総身が掻きむしられるような気がする。一人の肥った方の娘は懐からノートブックを出して、しきりにそれを読み始めた。
すぐ千駄谷駅に来た。