李御宁所描写的日本人的美意识和嗜好以及文化的特征作为切入点很新鲜,绝对值得一读。但是,日本人的缩小意识概括地说到底是什么呢?关于这个,先前的石川啄木的短歌在我们的视线中,推摄成螃蟹和一滴眼泪后,不是吸引我们下次回到大的沙滩风景吗?因此,在空无一人的沙滩上独自和螃蟹嬉戏,啄木的姿态和寂寞感同深受。
不管是借景的庭院,石庭还是盆栽、插花、被抽象化的媒体,从这方面看出的意识不是面向无限的自然和宇宙吗?而且,一期一会的浓缩不是瞬间就可以感受到永恒吗?也就是说,日本人不是浓缩了意识本身,感觉到从“风景画”和“变形的东西”到“余白”和“余韵”,而是更进一步思考日本人的感性,美意识以及风格。截取瞬间风景画的俳句和短歌,不描写背景而描写花鸟风月和山河的水墨画就是其典型。我们体验到描写的事物越来越小,作为底片的没被描写的背景越大,这不就是我们欣赏的吗?
李氏が描く日本人の美意識や嗜好、文法の特徴は切り口がとても鮮やかで、是非ご一読をお勧めします。しかし、私は、眼から鱗と思いながらも、日本人が「縮み志向」だとまとめるのはどうかなと思いました。というのも、先の石川啄木の歌も、我々の視線は、蟹と一滴の涙にズームアップした後、今度はレンズを引いて再び大きな砂浜の風景に戻っているのではないでしょうか。だからこそ、誰もいない砂浜で孤独に蟹と戯れている啄木の姿と寂しさがしみじみと感じられるのです。
借景の庭も石庭も盆栽も生け花も、「削いで」抽象化されたメディア(媒体)であり、そこから意識は限りなく広大な自然や宇宙に向いているのではないか。また、一期一会の凝縮された瞬間に永遠を感じているのではないか。つまり、日本人は意識そのものが縮んでいるというわけではなく、「点景」や「デフォルメされたもの」から「余白」や「余韻」を感じて、もっと大きなものに思いを馳せるというのが日本人の感性、美意識、流儀だと思うのです。一瞬の点景を切り取る俳句や短歌、背景を描かずに花鳥風月や山河を描く水墨画がその典型です。描く物が小さければ小さいほど、ネガ(陰画)としての描かれていない背景は限りなく大きく、それも我々は味わっているのではないでしょうか。