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文章字数: | 字 (由Word统计) | 文章格式: | Doc.docx (Word) | 更新时间: | 2017-11-28 |
译文:神道和日本文化史
以前我曾经在欧洲和美国碰到了两个有名的学者,当我说:与战前相比日本战后是完全改变了。他们就好象约定好了一样,坚决认为:日本的改变只是表面上的改变,因为日本有着不变的核心,所以日本在本质上是绝对不会改变的,我被这些话震惊了。那个时候,他们说这个不变的核心是与神道有关的。我对这个意见产生了很大的兴趣。
神道,是在以水稻作为农业的原始时代开始,在弥生时代形成了他的本质,从这以后我认为他的本质至今为止还保持着。而且在日本历史发展的过程中,他的本质与各个时代的宗教相结合,比如在某个时代从中国传来的宗教(佛教和儒教)或者是在某个时代在日本国内产生的思想(国学和家制主义思想)形成了各种各样的神道并且发展开来。从大的方面来说,在古代与中国的古代儒教相结合形成了推动古代国家形成的氏族祖先教。接着形成了与中国佛教相结合的两部神教和本地垂迹神教。还有在近代与中国的宋明的儒教相结合形成了各种儒家神道,还有和国学相结合的古代神道,与近代日本家制国家主义思想相结合而形成的崇拜天皇的国家神道。
我这么说,或许会有人想,受到其他的宗教思想的影响而发展这是哪个宗教的历史上都能看到的事情。但是,我认为神道的历史有着其他宗教所看不到的东西。佛教,儒教,基督教等宗教从他们原初的形态到现在的状态是,受到了其他宗教和思想的影响,在他发展的过程中保持着前代从宗教思想那里受到的影响,又从下一代的宗教和思想那里受到影响,这些影响重叠在一起从而建立起来。而神道的发展是将前代从宗教和思想受到的影响完全抹掉,可以说是在改变原来本质的情况下接受新时代的宗教和思想的影响以一种相似的样貌发展。神道的本质和各个时代的宗教思想的影响的关系就好像是穿着衣服的人偶,或许可以用人偶和服装的关系来比喻。但是,这个比喻恐怕不能够正确的传达我想说的意思。我用另外一个来比喻。火看上去就像是萤火虫形成的,这是前句,在漆黑的夜晚渔舟停在芦苇间,这是下一句,前句的火就是渔火。还有如果接春天让芒草快速的的成长成了原野的话,前面的火就是在初春将冬天的枯草燃烧的野火的火。神道的本质如同是前一句的火,能够被比喻。
例如,在德川时代初期,神道将佛教的影响完全清除接受了儒教的影响形成了儒教神道,接着有清楚了儒教的影响接受了国学的影响形成了古学神道。还有在战败后清除了国家主义思想的影响和一些东西结合起来。就是这样,各种新的变身,没有回心的变身,这是在佛教,儒教还有基督教的历史上看不到的东西。
这种发展的方式,神道随着每次时代的变换不管衣服或者形态的改变,神道的本质通常是不会改变的,正是这使得神道成为了日本文化开展的核心形成的理由吧。(正式因此,会为神道的那个时代的衣服或者形态而看错神道的本质,例如把战前战后的国家主义这件衣服或者说形态看成是神道的本质而责难神道,或者将某个小地方所传承的对神的信仰的习俗直接判定为神道这是不对的。神道他的原初的本质随着随着时代的改变而穿上不同的衣服或者说不同的形态,这仅仅是因为各个时代的历史的发展影响了神道的历史的发展罢了,也就是说把神道的衣服换了一下而看漏了神道的本质罢了。
如上所述,穿着衣服的人偶,他所穿着的衣服变了,从另一方面来比喻的话就是和歌的前一句和后一句的区别,这个意义的改变,神道和其他宗教思想的关系以及性质,我可以把它们理解成为数学上的用语就是关数主义。
我将日本的文明史和文化史这两种文化在他最繁荣的时代来看。这两者的文化意志就好像是典型主义和关数主义。一个是从中国古代传来的文化,一个是在日本土生土长的文化。虽然这个关数主义的文化是伴随着水稻农业而诞生的,但是也受到了原始时代所产生的各种高价值形式的培育。这个还幼小的固有的关数主义的文化意志在奈良时代时与从古代中国传来的有力的典型主义文化意志和其产物(文明)稳重的相结合。两个文化意志在这个双重的构造中相互矛盾有相互帮助,相互浸润又相互保存自我形态,将中国的古代典型主义文化朝着我国相适应的方向促进。从中国传来的典型主义文明已经开始带有我国固有的关数主义的色彩了。这个作用我暂时把它命名为adaptation的作用。但是,这个adaptation各位的强是在进入平安时代以后,特别是在遣唐使被废止以后。接着通过平安时代,这个adaptation中,从弥生时代以来日本人所固有的关数主义文明创造力受到了锻炼,这个力量也就更强了,向着作出各种高价值的文明形式的方向前进。终于在承久,建武之际的室町时代以后被认为文明以各种高价值的形式繁盛起来了。
这样想的话,我认为日本的文化史文明史经过了三个时代这个说法也是合适的。也就是说,原始关数主义文化的时代和典型主义文化的时代和关数主义文化的时代这三个时代。这三个时期是将镰仓时代,室町时代概括在一起的中世,平安时代以前的古代,安土桃山时代以来的近代,以过去的时代来划分的话是完全不同的,因此也有以现在的意义来否定中世文化文明的存在的说法。
那么,以上我的说明可能是从神道的持续和其变化这一辩证法来解说的。但是,我的意图是,通过这样的说明,能知道以前的神道研究是研究被称为神道的穿着衣服的人偶的没有脱掉衣服的只是研究衣服的转变,从而忽视了神道的本质。穿着衣服的神道,几乎脱光衣服裸身的神道,这个比喻如果招来误解的话,就看前面的和歌,不知道是什么像是萤火虫的火焰,又或者在关数式方面与f相当的是什么,更进一步来说,研究裸身的神道史,就好像是没有火的f代表了各个时代的衣服,与没有付句的x以怎么样的方式结合在一起来努力弄明白这件事。也就是指出了神道和神道研究的盲点。
原文:神道と日本文化史
かつて私がヨーロッパとアメリカで、二人の有名な日本学者に会って、「日本は戦前と戦後で全く変わった」と言ったとき、彼らは言い合わせたように、「日本が変わったように見えるのは外見だけで、日本には不変の核があるから、日本は本質的には決して変わることはない」と強く主張して、私を驚かせた。その時、彼らはその不変の核には神道が関係していると言った。私はこの意見に大変興味を覚えた。
神道は、原始の時代、我国で稲作農業が始まった弥生時代に、その原質を形成し、それ以来、その原質を今日まで保持してきたように思われる。そして、日本歴史の発展の過程で、その原質は時代時代の宗教や思想__ある時代には中国から伝来した宗教(仏教や儒教)、またある時代には日本国内で生まれた思想(国学や家制国家主義思想)--と結びついて、さまざまの神道となって展開してきた。大まかに言えば、古代においては中国の古代儒教と結びついて日本の古代国家の形成に働いた氏族的祖先教となり、ついで中国の古代仏教と結びついて両部神道や本地垂迹神道となり、また近世には中国の宋明儒教と結びついて種類の儒家神道となり、また国学と結んで古学神道、近代日本の家制国家主義思想と結んで天皇崇拝の国家神道となった。
私がこう語ると、他の宗教•思想の影響をつけて発展することは、どの宗教の歴史にも見られることであると、思う人がいるかも知れない。しかし、神道の歴史には他の歴史には見られないものがあるように思われる。仏教や儒教やキリスト教などは、それらの原初的形態から今日の状態へ、ほかの宗教と思想の影響をうけて、発展してきた過程においては、前代の思想、宗教の影響を保存しつつ、さらに次代の宗教、思想の影響を受け入れて--それらの影響をすっかり払拭して、言わばあらためて原質の上に新時代の宗教、思想の影響を受け入れるかの如き貌で行なわれてきた。神道の原質と時代時代の宗教、思想の影響との関係は「着せ替え人形」における人形と衣裳との関係のようなものと喩えられるかもしれない。しかし、この比喩は私の言いたいことを正確に伝えないおそれがあるから、私はもう一つの別の比喩を取ろうと思う。
連歌において、
火かと見ゆるは蛍なりけり
と言う前句に、
漁舟泊まる葦間の暗き夜に、
と付句をつけると、前句の「火」は漁火となる。
ところが、
春ははやすぐろの薄茂る野に
とつけると、前句の「火」は春の初めに冬に枯れた草を焼いた野火の残り火になる。神道の原質はこの前句の「火」のようなものと、喩えることができるであろうか。
たとえば、德川時代の初めに神道は仏教の影響を完全に払拭して儒教の影響を受け入れて儒教神道となり、ついで儒教の影響を払拭して国学の影響を受けて古学神道となり、また敗戦後は国家主義思想を払拭して何かと結びつこうとしている。このような、あざやかな「変り身」--回心でなく変身--は、仏教や儒教ないしはキリスト教の歴史には見られないのではなかろうか。
こういう展開の仕方--神道の時代毎に変わる「衣裳」または「すがた」にかかわらず、神道の原質はつねにもとのままであるということ--が、神道をして日本文化展開の核たらしめて来た所以(理由)ではなかろうか。{このことから、神道の、ある時代の「衣裳」または「すがた」を神道の本質だと考えて--神道を非難したり、また山中海岸の僻地に伝承された神信仰の習俗を神道の原型だと速断したりすることになるのではあるまいか。神道の神道たる所以は原初的な原質が時代時代に異なる「衣裳」をつけ、または「すがた」をとって、その時代時代に歴史的な働きをする所にあるから、神道の歴史的働きを把えただけでは、いわば神道の衣裳調べになって神道の原質を見落すおそれがあろう。}
このような--「着せ替え人形」がその衣裳を取り換えるような、また別の比喩を以って言えば、連歌の前句が付句の異なるについて、その意味を変えるような--神道と他の宗教、思想との関係の仕方を可能にする性質を、私は、数学上の用語を借りて、関数主義と名づけておきたいと思う。
私は日本の文化史、文明史に、二種類の文化、文明の栄えた時代があるとかんがえている。その二つの文化意味は典型主義と、関数主義である。一は「古代中国」より伝来した文化であり、二は「日本」でうまれた文化である。この関数主義的文化意味のは水稲農業生活とともに誕生したが、始原の時代には文明的価値の高い諸形式を豊富に生むまでには力强く生育していなかった。このまだ幼弱な固有の関数主義的文化意志の上に、奈良時代に古代中国から伝来した有力な典型主義的文化意志とその所産(文明)がどっしりと上積みされた。両文化意志(文明形成の両方向)は、この重層的構造の中で、矛盾しつつ助け合い、浸潤しつつ保存し合って、中国古代の典型主義的文化の我国への定着を促進し、中国伝来の典型主義的文明に我国固有の関数主義的色彩与え始めた。こうした二重構造は天武朝に構築されると同時に、上述の作用が開始せられたのである。この作用を私は坂りにadaptationの作用と呼んでおこう。しかし、このadaptationが格段に强まるのは平安時代に入ってから、ことに遣唐使の廃止以後のことであった。そして平安時代を通じて、こうしたadaptationのうちに、弥生時代以来日本人に固有してきた関数主義的文明創造力が鍛錬せられてその力を増強し、文明的価値の高い諸形式を作りうるまでに成長して行った。そしてついに承久•建武の間を境にして室町時代以降に文明的価値の高い諸形式を繁盛させることになった、と考えられる。
こう考えると、日本の文化史、文明史は三時代にわけられるのが適当であるように思われる。すなわち、原始関数主義文化の時代と典型主義文化の時代と関数主義文化の時代とである。この三時代法は、鎌倉時代、室町時代を一括して中世と言い、平安時代以前を古代、安土桃山時代以降を近世とよぶ従来の時代区分とは全く異なり、したがって、今までの意味での中世文化、文明の存在を否定するものである。
さて、以上の私の説明は神道の持続と変化の弁証法を解説しているように見えるかも知れない。しかし、わたしの意図は、そうした説明を通して、従来の神道史の研究が神道という着せ替え人形が脱ぎすててきた衣裳調べに精魂を費して、その衣裳を着、やがて脱ぎ捨ててきた神道の裸身そのもの--この比喩が誤解を招くなら、先の連歌における何の火とも知れぬ蛍のような火、また関数式におけるfに当るものが何か、さらに神道史の研究がそうした裸身、火ないしfがその時々の衣裳、付句ないしxとどのように結びついてきたかを明らかにする努力を怠ってきた点を明らかにするところに在る。つまり神道と神道研究 の盲点を指摘するとこらにあるのである。