文档价格: | 1000金币立即充值 | 包含内容: | 完整论文 开题报告 | 文章语言: | 日语 | |||||
文章字数: | 字 (由Word统计) | 文章格式: | Doc.docx (Word) | 更新时间: | 2017-11-28 |
译文:源氏物語
且说天皇时代,某朝后宫妃嫔众多,内中有一更衣。出身微寒,却蒙皇上万般恩宠。另几个出身高贵的妃子,刚入宫时,便很是自命不凡,以为定然能蒙皇上加恩;如今,眼见这出身低微更衣反倒受了恩宠,便十分忌恨,处处对她加以诽谤。与这更衣地位同等的、或者出身比她更低微衣自知无力争宠,无奈中更是万般怨恨。这更衣朝夕侍候皇上,别的妃子看了自然都妒火中烧。也许是众怨积聚太多吧,这更衣心绪郁结,便生起病来,只得常回娘家调养。皇上见了,更是舍她不
下,反而更加怜爱,也不顾众口非议,一心只是对这更衣佝情。此般宠爱,必将沦为后世话柄。 即便朝中的显贵, 对此也大都不以为然,彼此间时常侧目议论道:“这等专宠,实在令人吃惊!唐朝就因有了这种事而终于天下大乱。”这内宫的事,不久也逐渐传遍全国,民间听了怨声载道,认为这实在是十分可忧的,将来免不了会出杨贵妃引发的那种大祸。更衣处于如此境地,苦恼不堪,内心也甚为忧惧,唯赖皇上深思,尚能在宫中谨慎度日。
这更衣早已谢世的父亲曾居大纲言之位。母亲也出身名门望族,眼见人家女儿双亲俱全,享尽荣华富贵,就指望自己女儿也不落人后;因而每逢参加庆吊等仪式,她总是竭尽心力、百般调度,装得十分体面。只可惜朝中没有重臣庇护,如若发生意外,势必无力自保,心中也就免不了感到凄凉。
或许是前世的因缘吧,这更衣却生下一容貌非凡、光彩如玉、举世无双的皇子。皇上得知后,急欲见这孩子,忙教人抱进它来一看之下,果是一个清秀异常的小星子。
大皇子为右大臣的女儿弘徽殿女御所生,母家是尊贵的外戚,顺理成章,他自然就成了人人爱戴的东宫太子。论相貌,他却不及这小皇子清秀俊美。因此皇上对于大皇子,尽管珍爱,但相比之下总显得平常,而对于这小皇子,却视若掌上明珠,宠爱无比。看作上无私予的宝贝。
小皇子的母亲是更衣,她有着不寻常的身份,品格也十分高贵,本不必像普通低级女官一样,在日常生活中侍候皇上。而皇上对她的宠爱非同寻常,以至无法顾及常理,只是一味地要她留在身边,几乎片刻不离。每逢并宴作乐,以及其它佳节盛会,也总是首先宣召这更衣。有时皇上起床迟了,便不让其回宫室里去,整个一天干脆就将这更衣留在身边。这般日夜侍候,按更衣的身份而论,也似乎太轻率了。自小皇子出生后,皇上对这更衣更是十分重视,使得大皇子的母亲弘徽殿女御心生疑忌;如此下去,来日立为太子的,恐怕就是这小皇子了。
弘徽殿女御入宫最早,况且她已生男青女,皇上对她的看重,非一般的妃子可比。因此独有弘徽殿的疑忌,令皇上忧闷,心里也很是不安。
更衣愈受皇恩宠爱,然而贬斥、诽谤她的人也愈多。她身单体弱,宫中又没有外戚从旁相助,因此皇上越加宠爱,她越是忧惧不安。她所住的宫院叫桐壶,从此院去皇上常住的清凉殿,必须经过许多妃嫔的宫室。她在两者间频繁来往,众妃嫔看在眼里,心里极不舒畅,也是自然的。有时来往得太过频繁,这些妃嫔就恶意作弄她,在板桥上或过廊里放些龌龊污秽的东西,使得迎送桐壶更衣的宫女们经过时,衣裙被弄得龌龊不堪;有时她们又相互私约,将桐壶更衣必须经过的走廊两头有意锁闭,使她进退不是,窘迫异常。如此等等,花样百出,桐壶更衣因此痛苦不堪。皇上得知常发生此等事情,对她更是怜惜有加,遂让清凉殿后面后凉殿里的一个更衣另迁别处,腾出房间以供桐壶更衣作值宿时的休息室。那个迁出去的更衣,从此对桐壶更衣怀恨在心,也就更不用言说了。
小皇子三岁时行穿裙仪式④排场并不亚于大皇子当年。内藏定和纳殿倾其所有,大加操办,仪式非常隆重,却也招致了世人的种种非议,但待得看到这小皇子容貌出众,举止、仪态超凡脱俗,十足一个盖世无双的五人儿,人们心中对他的妒忌和非议才顿然退去。见识多广的人见了他,都极为吃惊,瞠目注视道:“这等神仙似的人儿也会降至世间!”
是年夏天,小皇子母亲桐壶更衣觉得身体欠安,便欲告假回娘家休养,无奈皇上不忍, 执意不允。 这更衣近年来怄怄常病,皇上已经习惯了。于是对她说道:“不妨暂且往在宫中休养,看看情形再说吧。”可这期间,更衣的病已日渐加重,不过五六日,身体已是衰如弱柳。母亲太君心痛不已。向皇上哭诉乞假。皇上见事已至此,方准许其出宫。即使在这等时候,皇上也心存提防,恐其发生意外,令桐壶吃惊受辱。因此,决意让小皇子留在宫中,更衣一人悄悄退出。皇上此时也不便再作挽留,但因碍于身份,不能亲自相送出宫,心中难免又是一阵难言之痛。这更衣原本花容月貌,到这时已是芳容消损,自己心中也是百感交加,却又无力申述,实在只剩得奄奄一息了。皇上见此情景,茫然无措,一面啼泣,一面历叙旧情,重申盟誓。可这更衣已不能言语、两眼无神、四肢瘫软,仅能昏昏沉沉躺着。皇上束手无策,只得匆匆出室,忙命左右备车回去;但终觉舍她不下,不禁又走进这更衣的房中来,又不允其出宫了。他对这更衣说道:“你我曾山盟海誓:即便有一天,大限来时,我们俩也应双双同行。你不至于舍我而去吧!” “大限来时悲长别,残灯将尽叹个穷。早知今日……”
原文:源氏物語
天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった。夜の御殿(おとど)の宿直所(とのいどころ)からさがる朝、つづいてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いてくやしがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へさがっていがちということになると、いよいよ帝(みかど)はこの人にばかり心をおひかれになるというごようすで、人がなんと批評しようとも、それにご遠慮などというものがおできにならない。ご聖徳を伝える歴史の上にも暗い影のひとところ残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上(てんじょう)役人たちも困って、ご覚醒(かくせい)になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどのご寵愛ぶりであった。唐(とう)の国でもこの種類の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女の出現によって乱が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる。今や、この女性が一天下のわざわいだとされるにいたった。馬嵬(ばかい)の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気(ふんいき)の中でも、ただ深いご愛情だけをたよりにして暮していた。
父の大納言(だいなごん)はもう故人であった。母の未亡人が生れのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手(はで)な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者をもたぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。
前生(ぜんしょう)の縁が深かったか、またもないような美しい皇子(おうじ)までがこの人からお生れになった。寵姫を母とした御子(みこ)を早くごらんになりたい思召(おぼしめ)しから、正規の日数がたつとすぐに更衣母子(おやこ)を宮中へお招きになった。小皇子は、いかなる美なるものよりも美しい顔をしておいでになった。
帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生れになって、重い外戚(がいせき)が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子としてだいじにあそばされ、これはご自身の愛子として、ひじょうにだいじがっておいでになった。
更衣ははじめから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった、ただ、お愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女といってよいほどのりっぱな女ではあったが、しじゅうおそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催(もよお)し事をあそばすさいには、だれよりもまず先にこの人を常の御殿(おとど)へお呼びになり、またある時はお引きとめになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができず、そのまま昼も侍(じ)しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生れになって以後、目に立って重々しくお扱いになったから、東宮(とうぐう)にも、どうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子のご生母の女御は疑いをもっていた。
この人は帝のもっともお若い時に入内(じゅだい)した最初の女御であった。この女御がする非難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へすまないという気もじゅうぶんにもっておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪くいう者と、何かの欠点を探し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
住んでいる御殿は御所の中の東北のすみのような桐壺(きりつぼ)であった。いくつかの女御や更衣たちの御殿の廊(ろう)を通(かよ)い路(みち)にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣があがりさがりして行く桐壺であったから、しじゅうながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量(かさ)んでいくのも道理といわねばならない。召されることがあまりつづくころは、打橋(うちはし)とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪いしかけがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾(すそ)が一度で痛んでしまうようなことがあったりする。またあるときは、どうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠(じょう)がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしがいい合せて、桐壺の更衣の通り路をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。数えきれぬほどの苦しみを受けて、更衣が心を滅入(めい)らせているのをごらんになると、帝はいっそう憐(あわ)れを多くお加(くわ)えになって、清涼殿(せいりょうでん)につづいた後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた更衣を外へお移しになって、桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深くなった。
第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着(はかまぎ)の式がおこなわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な準備の費用が宮廷から支出された。それにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聰明(そうめい)さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生れてくるものかとみな驚いていた。その年の夏のことである。御息所(みやすどころ)(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである)はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが、帝はおゆるしにならなかった。どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」といっておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇(ひま)を願って帰宅させることにした。こんな場合にはまたどんな呪詛(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子にまでわざわいをおよぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目立たぬように御息所だけが退出するのであった。このうえとどめることは不可能であると帝は思召(おぼしめ)して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬご尊貴の御身(おんみ)のものたりなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。はなやかな顔だちの美人がひじょうに痩(や)せてしまって、心の中には帝とお別れしていく無限の悲しみがあったが、口へは何も出していうことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのをごらんになると、帝は過去も未来もまっ暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろなたのもしい将来の約束をあそばされても、更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心(おおみこころ)を襲うた。更衣が宮中から輦車(てぐるま)で出てよいご許可の宜旨(せんじ)を役人へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない。「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお顔を見て、「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり死がそれほど私に迫ってきておりませんのでしたら」