好像有大鱼的池塘[日语外文翻译]大きそうな魚のいる池です
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文章字数: 字 (由Word统计) 文章格式: Doc.docx (Word) 更新时间: 2017-11-28
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译文:好像有大鱼的池塘
误用:大きそうな魚のいる池です
正解:大きな魚のいそうな池です
样态助动词“そうだ/そうです”接在形容词、形容动词词干或动词的连用形后面。动作动词后续“ている”也可用“そうだ”,如“雨が降っていそうだ”。否定式“ない”加上结尾词“さ”变成“わからなさそうだ”,形容词加“ない”的时候或是只有一个音节的形容词包含“ない”本身加“そうだ”的时候变成“なさそうだ”,如“大きくなさそうだ”、“うれしくなさそうだ”、“時間がなさそうだ”、“値段のわりに良さそうだ”、“せつなさそうだ”。但有两个形容词是特例,“濃い”和表示希望的“たい”,它们加上“そうだ”的时候要用词干加“そうだ”如“濃そうだ”,“帰りたそうだ”。
语法教科书和参考书当中,关于接续的,多半都是像以上那样仅仅只是说“そうだ”表示样态、推量、委婉的断定而已。国语辞典上的说明稍稍详细一点,但也只是说“そうだ”根据显现在外面的情况判断或马上要怎样的意思。如“釈があり—な顔”、“呼べば話ができ—な近さ”、“怒られ—だ”、“これでよさ—ね”、“申し訳なさ—に身をすくめる”、“何か言いた—な口つき”。虽说是外在显示的情况,但那到底是怎样的情况,使用上有没有什么限制条件(不是语法上的接续问题,而是在上下文中能否使用“そうだ”这个问题),一概都没有提及。于是就出现了像标题中所列的的句子“この池はいかにも大きそうな魚のいる池です”。那我们怎么理解外国人的这个句子呢?句子当中每个词的形式上的接续都没有违反日语的语法,但是读了这个句子马上能理解的日本人能有几个呢?写这个句子,作者是通过什么依据来说好大的鱼呢?实际上真的可以通过池塘的样子来判断池塘里的鱼是大的吗?
助动词“そうだ”用在表示外在对象的样态或推量时,“おいしそうな料理”、“泣きそうな顔になる”、“悲しそうな素振り”、“許し手くれそうな様子だった”、“何かいい事ありそうだ”、“この映画は面白くなさそうね”、“今にも倒れそうな掘立小屋”、“ボタンが取れそうだ”是根据眼前所展示的对象所显现出的某种特征来表示某种趋势或某种倾向。是从这一点才产生推量的意思。重点是,从这个对象所显示的表面样态判断推定其内部本身所隐藏的倾向和趋势。因为闻到了好闻的味道所以才判断“おいしそうな料理”,看到钓鱼竿弯曲了想这可能是条大鱼吧,刚开始的时候很无聊便推测之后也不精彩。表面的香味和真实的味道,鱼竿的弯曲和与此有直接关系的水中的鱼的大小,到现在为止的无聊和与此相关的电影后半部分的展开,全都是从对象的一个方面来类推到其他方面的特征。这就是样态助动词“そうだ”的特征。
因此,前文所提到的“大きそうな魚のいる池”,要判断鱼的大小必须根据与鱼的大小有直接关系的鱼的表面特征,也就是说,说话者眼前所看到的特征才行。但是原文中只有有鱼的鱼塘这一点,没有任何一个情况与鱼的大小有直接关系。忽略与鱼的大小有关的指标话题,最后突然转换到池塘上,仅仅从池塘的样子就来考虑池中看不到的鱼的大小,太过于跳跃,所以这种表达是勉强的。要判断一条鱼的大小就必须有一些指标,比如钓鱼的人那么费劲或鱼竿弯成那个样子了,再或者都弄出那么大的水花了……
但是例子当中的情况就绝对不能用“そうだ”这个词吗?其实也未必。从池塘的样子马上推测鱼的大小是勉强的,但可以通过池塘来判断有没有鱼。因此在这里,“そうだ”不能够用于对鱼的大小的推测,而只能转向“魚がいる”。正确的说法应该是“大きな魚のいそうな池です”。
原文:大きそうな魚のいる池です
誤用:大きそうな魚のいる池です
正解:大きな魚のいそうな池です
様態の助動詞「そうだ/そうです」は形容詞-形容動詞の語幹か、動詞の連用形に付く。動作動詞には「ている」を付けて「雨が降っていそうだ」のようにも言う。打消形「ない」には接尾語「さ」を付けて「わからなさそうだ」となり、形容詞に付く「ない」や一音節形容詞、「ない」を含む形容詞も同様「大きくなさそうだ」「うれしくなさそうだ」「時間が無さそうだ」「値段のわりに良さそうだ」「せつなさそうだ」となるが、「濃い」と希望の「たい」は例外で「濃そうだ」「帰りたそうだ」が普通のようである。
文法教科書-参考書類では、接続に関してだいたい以上のように説明し、ただ"様態-推量-婉曲-な断定を表す"としか記述していない。国語辞典ではやや説明が詳しくなるが、それでも外に現われた情況から判断して......だ、もうじき......すると見受けられるという意を表す。「訳があり—な顔」「呼べば話ができ—な近さ」「怒られ—だ」「これでよさ—ね」「申し訳なさ—に身をすくめる」「何か言いた—な口つき」のようにしか解説されておらず、"外に現れた情況"と言っても、それがどのような場面においてなのか、表現として用いるときの制限条件(文法的な接続の問題ではない。文脈の中でその語が使用できるか否かの意味上の問題)については何一つ触れていない。その結果、標題に示したような文が作られてしまうのだと考えられるのである。さてこの池はいかにも大きそうな魚のいる池です。という外国人の作文をどう思うであろうか。文中の一つ一つの語の形式的な接続や係り受けの関係を調べてみても、特に日本語の規則に違反してはいない。しかし、この文を読んで直ちに作者の意図する内容を理解できる日本人が何人いるだろうか。「大きそうな魚のいる池」とあるが、作者は何を手掛かりとして「大きそうな魚」と言ったのだろう。池の様子からそこに棲んでいる魚が大きそうだと判断することなど実際に出来るのであろうか。というのは、助動詞「そうだ」を外在する対象の様態や推量として用いる場合は、「おいしそうな料理」「泣きそうな顔になる」「悲しそうな素振り」「許してくれそうな様子だった」「何かいい事ありそうだ」「この映画は面白くなさそうね」「今にも倒れそうな掘立小屋」「ボタンが取れそうだ」のように、眼前にある対象が現在示している感覚的特徴からある傾向や趨勢を話し手の印象として読み取る意識となる。そこから推量的気分も生まれてくれるのだが、問題は、その対象が現在示している表面的な様態から、その裏に潜む対象自体(ないしは対象に直結するもの)の性質や傾向を連鎖的に判断し推定する行為だということである。いい匂いだから「おいしそうな料理」と判断し、釣り竿がしなるのを見て「こりゃ大きそうな魚だ」と思い、初めがつまらないから以後の部分も「面白くなさそうだ」と推量する。表の匂いと中身の味、釣り竿のしなりとそれに直結する水中の魚の大きさ、現在までのつまらなさとそれに直結する今後の映画の展開、いずれも一続きの対象の一端から他方の性質や傾向を類推するのが様態の助動詞「そうだ」の特徴である。
そこで先の例「大きそうな魚のいる池」も、魚のサイズを「大きそうだ」と推定する判断の根拠は、池に棲む魚のサイズを類推させる、魚の大小に直結した表面的な特徴、それも話し手の眼前に展開する感覚的な特徴でなければならない。だが、原文はただ「魚のいる池」とだけあって、魚の大小に直接結び付くような情況は何一つ示されていない。魚のサイズを予想させるような指標を略して、いきなり最後的な場面「池」へと話が飛んでしまっているわけである。池の様子から、水中にいるであろう何も見えない魚を「大きそうだ」などと考えることは、飛躍がありすぎて無理であろう。釣り師があんなに引上げるのに苦闘しているからとか、竿があんなにたわんでいるからとか、あるいは、あんな大きなしぶきを上げているからとか、魚の大きさを示す何等かの指標がなければならない。
それでは、このような状況のときには絶対に「そうだ」が使えないかというと、そうでもない。池の様子からいきなり魚のサイズを想定しようとするから無理があったのであって、魚の存在そのものなら想像することも許されよう。そこで「そうだ」を大きさに対して用いないで、「魚がいる」ことのほうに移して、大きな魚のいそうな池です。
 

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