茶的精神与生存的不安[日语论文外文翻译]お茶の心 生きていることの不安
编 辑:日语论文网发布时间:2017-11-28

译文:茶的精神与生存的不安
原文:お茶の心 生きていることの不安
译文:在我的家里,吃完饭,一般都是我负责冲泡饭后所喝的茶,也不知道是从什么时候开始,大概五,六年前就是这种情况了。我真没想到,成了家里的“茶博士”。当然也就是泡一些普通的茶,可是做法不同,味道也天差地别。泡的时间过长就会变得过于苦涩,相反,时间过短的话,茶叶和水没有很好的融合,会有股怪味。
原文:食事の後、わが家では私がお茶を入れる係である。いつの間にか、五、六年前からそうなった。私ははからずも、わが家の茶頭となったのだ。もちろんふつうの煎茶であるが、入れ方によってけっこう味が違うものだ。時間をかけすぎると苦くなるし、といって早すぎるとお茶とお湯がなじまず、トゲトゲしい味になってしまう。
译文:从理论上讲,水温,茶量,如果你把时间等等的参数控制好,将会泡出非常美味的茶。 然而像这样子机械地盲目地不成熟的做法,是没有任何价值而言的。即使这样机械的在厨房里做,也未必就能喝到味道醇正的茶。 水的 温度,茶的数量,加入融合的时间,除了这些还有很多各种各样的细小因素,例如茶碗的质地,形状,饮茶人的心理状态,肠胃的情况,体内水分,在饮茶之前吃的食物的味道浓淡,等等数据输入到计算机后会无限增加。
原文:理屈からいうと、お湯の温度、お茶の量、入れる時間などをデータ的に制御すれば、恒常的においしいお茶が出るはずである。しかしそれを機械的にやってしまうのも大人気ないというか、味気ないというか、また仮りにそれをキチンと機械的にやったとしても、必ずしもおいしいお茶が飲めるとは限らない。お湯の温度、お茶の量、入れる時間、のほかに細かいけれどもさまざまな要素が、たとえば茶碗の質感、形、飲む人の心理、腹具合、体内水分、その前の食事の味の濃淡、等々、コンピューターにインプットするデータは無限に増える。
译文:虽然那一个个都是可以舍去的要素,作为一个整体它将成为茶叶和味道的重要复合关键。即使他们进一步细算得来的结果是成功的,但是所谓的茶道并不只是以茶的美味为目的,然而在计算机里会出现令人焦急的一面。从电脑中也许会出现“目的是什么”这样的液晶文字。
原文:その一つ一つは切り棄ててもいいような要素なのだが、全体としては重要な複合的なお茶の味の鍵となっている。仮りにそれらがさらに細かく計算されて成就されたとしても、茶の湯というのは茶のおいしさだけが目的ではないところが、コンピューターには非常にじれったいものに映るだろう。
译文:但实际考虑一下,茶道的目的是什么?为什么会有茶道存在?
原文:「モクテキハナニデスカ」という質問が液晶文字でコンピューターから出てくるかもしれない。
しかしじっさいに考えてみて、茶の湯の目的は何だろうか。茶の湯は何のためにあるのだろうか。

译文:可以计算在内的有一期一会,热情待客、艺术的环境、表演等等各种各样的项目的目的,无论如何也不能算是完整的。
原文:一期一会、心のもてなし、環境芸術、パフォーマンス、などいろいろな目的が計上されているが、そういう目的項目だけではどうしても埋め合わせのつかないところがあるようなのだ。
译文:然而这样的事姑且不论,每天泡茶的时候,都会表现出某种形式。
即使是单纯的晚饭后的栈茶日积月累起来也是件令人感到可拍的事情,人们一直在努力做好每一天的事情。烧开水,备齐茶杯,准备茶叶,注入热水,这样的泡茶过程将会带有自己意识的整理的方式来进行。通常饭后的茶来说,没有任何地方这样做,我第一次成为 “茶博士”的时候,是用编制的滤茶网来过滤茶叶的。寿司店经常使用的一种方法。把绿茶粉装入茶碗直至充满茶碗完整的圆柱体。 那个寿司店的茶来说的话是十分美味的。在有些吃寿司的高档的地方,一个临时座位,坐在柜台的同时这里会有个大型的茶碗里装着很多东西。接下来细心的和粗略的咀嚼的时候,就会认为这家寿司店茶的浓郁和美味,我认为这家店的茶味道很好。
原文:しかしそんなことはともかくとして、毎日お茶を入れていると、ある形というものが出来てくる。たんなる食後のお茶であっても、積み重ねというのは恐ろしいもので、人間は日々ものごとを合理化しようと努力している。お湯を沸かし、茶碗を揃え、お茶の葉を用意し、湯をそそぎ、という順序が次第に自分なりに整えられてくるのだ。
ふだんの食後のお茶というのは、どうにでも入れようがあるもので、私がはじめて「茶頭」になつたころは、細竹で編んだ茶こしを使っていた。寿司屋でもよくこれを使っている。入れているのは粉茶のようで、たっぷりした筒茶碗の上まで満たされて出てくる。あの寿司屋のお茶というのがじつにおいしい。寿司屋という少々高級な場所で、それでいてカウンターという臨時的な席に座りながら、そこで大型茶碗にたっぷり目に出てくる。つまり精密さと大雑把さとの嚙み合いが、あの寿司屋のお茶というものをおいしくしているのだろうと思う。

译文:因此,在家里也用来泡茶,最近一段时间一直使用茶壶泡茶。并不是所谓的从以前的在茅草屋喝茶到现在的在舒适的客厅里喝茶,任何泡茶方法都需要在家每天重复的操作,要按照茶道的顺序来做,因此产生了一定的程序。行为本身,有点远离原本的目的,会觉得有点浮躁。只是在泡茶的过程中形成了一种“道”,无意中自己也明白了。
原文:そんなわけで、家でも茶こしを使ってお茶を入れていたが、最近ではいつの間にか急須で入れるようになった。草庵のお茶からまた書院台子のお茶に、というわけでもないのだろうが、どんな入れ方であれ毎日繰り返すうちには、お茶の入れ方にある筋道ができて、リズムが生まれてくる。その行い自体が、目的を離れて、少し浮き上がってくるのを感じる。ただのお茶を入れるというおこないに「道」が出来上がっていくのが、何となく自分でもわかるのである。
お茶を入れる、その入れ方が次第に儀式化していくというのは、生きていることの不安によるものではないか。

译文:关于茶道,觉得它的方式现在是种仪式化的东西,不应该是让我们活的不安的东西。这样说有些夸张,但是也可以换个说法。每天泡茶的时候,会根据正确的方式来做。根据一定的规则来做事情,会有很安心的感觉,获得平和的心态。
原文:というと少し大げさになるのだけど、毎日お茶を入れる、その入れ方にもっとも良い順序というのが決まってきて、それがスマ-ズにとりおこなわれていくことによって、安心をするということがあるのである。心の安らぎを得る、と言い変えてもいい。
译文:人类在生活中总会感到某种莫名的不安。而平时,由于工作的原因,而不用面对这种不安感。或者也可以这么说,人们为了避免这种不安,而全心工作。
原文:人間はいつも何らかの不安を抱えて生きている。ふだんは生活のための仕事があるから、生きていることの不安には面と向かわずに済んでいる。あるいはその不安と向き合うのを避けるために、生活のための仕事に没頭しているのかもしれない。

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