译文:日本人的思想构造
日本人特有的姿势
记不清楚了,大概三年前,看过一个美国人,关于日本人写了以下的文章,这在日本杂志上也有一部分介绍。
日本人是一种奇怪的人。我们脑中浮现出日本人作战时候的姿势时,那想到的一定是低头的姿态。
这个发表主张的人恐怕是想到在电影里或者别的什么地方,看到的全学联游击队的姿势吧。武斗棒以前的叫法变成さあ、こい之类以后,用手抱住前面的人的腰,固执地向前面冲。从那样的姿势看来不得不说给人一种不可思议的印象。
我诚然这么认为,从那之后,总是在各种各样的场合观察日本人的姿势。和他们指出的一样。除此之外的状态还有几乎看不到保护孩子的场景。川柳说“坐满的车里,如果有孩子就拼命抢座位”,我们的那种拼了命的姿态是为了防卫屁股和背。当然男人也这样,也有例外。
表面文化和背面文化
然后,我想提一提的是旁门左道的世界。在这方面,我的书《日本文化的条件》(“当代日本的风俗和文化”)里有提及。仅限于关于这个论文的简单描述。
在日本文化的意识是可以分为“表面”和“背面”。 表面文化是公的,并且体制的文化,背面文化是私人的,并且非体制的的人际关系和社会关系的产物。日本的特征在日本人的意识存在上有背面文化的优越。我们之间表面文化则被认为是在谎言的世界中。
欧洲和美国的文化,当然也有一个正面和背面文化。但是,在那里背面文化不完全有积极的独立性。对于那些只是存在的日本人背面世界中的所谓真实感。举一个例子,芭蕉蹒跚地在『里头的小道』里走然后感触到了自然和人生的真实。如果走东海道,在储藏室骑马,即使骑着骏马也不可能产生这种艺术。
像喝茶,也被当做舒适和简略的娱乐活动在千家流派流行,又像正在行驶的汽车,与尿布的气味儿和菜肉蛋卷的气味儿一起,流动着现实的人生。所谓主要街道上充满着汽油的气味儿和谎言和虚荣,都是来自于日本人的心理吧。
这里有为日本的世界是所谓的旁门左道的世界展开了说明。旁门左道的世界,那个在欧美是异端,是文字那样的非法世界。像日本人的想法一样,所谓左道旁门外边的道异端的道,脱掉不是道。没有道本身。第一这个字的原义是那个公司和家庭不理想的情况,人们首先寻求的解除挫折的方法是与异性的接触吧。这个情况,在美国有夜女,不过如果和那些痛快地交往的话,就要从社交界离开。与那样的伙伴轻松地交往的只能是旅客吧。再是在俱乐部的与女性接触所花费的费用,公司的高级职员的那些收入也是力不能及的。
纽约黑人街的厉害也常被日本很好地报道,不过,在除此以外上也有白人“人间的幽灵区”。这里,曾经是厉害的公司运行工作的,不过,挫折变得完成不了吹动酒下沉的人蠕动的世界。是非常凄惨的一角。
可是,在日本“左道旁门”的世界虽然和“正道”没有直接相关,,但是一旦哪里出现关联,那么左道旁门里有符合左道旁门的秩序,有道德,也有目的。如果正确说有。
特殊的人际关系
想谈一下有关日本的人际关系与美国的不同点。在职务上,上司和部下就是上下级关系。性质不同的东西因不同性质而结合的关系。
在日本只有这种关系很盛行,横向关系并不盛行。东大的中根千技叶在『タテ社会の人間関係』一书中指出横向关系在社会中不发挥作用。
我想指出的是,这种情况像欧洲、美国一样,日本重视身份的关系、上司和部下的关系,并不是说日本社会只有这种关系。表面上的重视上下级关系和背面的关系两者并立。若欧美是纵横关系保持平衡的社会,那日本仅仅是重视上下级关系的社会。
欧洲只是表面的关系。只是课长和部下这样形式上的关系。在日本,领导,也就是处在上层的人的最重要的理念不仅仅只在职务上高人一等,具有开阔、长远的眼界,正确且快速的决断,对于变化能正确快速应对的能力和评价人物能力像这样仅仅是满足美国式的管理者的条件在日本是不够的。
比起这个条件,上司在人道上比部下要上等这才是不可缺少的基本的条件。在人道上要上等就是不要直截了当德去中伤,这也不是说道德上要好,而是希望有点人情味。单纯讲就是这样。
普通职员只要考虑自己的事情就好了。但是若稍微有点地位,有3个部下这样的就不要只考虑自己的事情。和公司的事情一样,大脑中也应该存有3位下属。当课长的话有30个下属,地位再高点有百来个下属。和公司的关系进一步发展。比起自己要更多地考虑下属。比起自己,更多考虑他人才是得到真正管理者资格。像社长这样到最高位时,和明治宪法的天皇的理想人物一样,全然不考虑自己的事、私生活,只考虑别人才被认为是最理想的。
为什么日本人极端地改变主意?
战后盛行说日本人坏话的时代,而且非常流行的东西在本尼迪克特所写的『菊と刀』这本书中有所体现。日本文化不是罪文化,而是耻文化这一观点。欧洲文化成立在所有人在绝对唯一的神面前必须承担最终责任这一基础上。自己的罪这个意识,清楚地在那里被自知。可是,在日本唯一绝对的神不存在。那是多神的世界。
因此,规定日本人的思考和行动的道德原理是神前的良心这个东西。只要不在别人面前丢脸就好了。只要能逃避世间的目光,不管做什么事,都不会有愧于心。日本人就是在这种意味上的典型的机会主义者。本尼迪克特也是持有这种意见。
战争中从事对中心理谋略战争的作者,对于战时日本人在成为俘虏前彻底反抗,一旦被俘虏,却为敌人而献身这一骤变持有疑问。
原文:日本人の意識構造
日本人特有の姿勢
はっきり覚えていないが、三年ほど前に、あるアメリカ人が、日本人について次のような論文を書いていていたのを読んだことがある-これは日本の新聞にもそのいちぶが紹介された。
「日本人というのは、不思議な人種である。私たちが、日本人の戦う姿勢というものを頭の中に思いうかべたとき、必ずそれはうつ向きの姿をとって目にうつる」
この論者はおそらく、映画かなにかで全学連のデモの姿勢など見たのだと思う。ゲバ棒以前の話だが、彼らが、さあ、こい、ということになると、前の人間の腰へ手をまわし、極端に前へうつ向いて突ったんでいく。その姿からなんとも奇妙という印象を受けたのにちがいない。
私はなるほどと思って、それからあと、いろいろな場合に日本人の姿勢を観察してきた。この指摘のどおりだ。それ以外の格好で子どもを守るじんを発見できなかったのである。「満員車、子がいますよと必死なり」と川柳がいうわたしたちのその必死の姿勢はお尻と背中で防衛するのだ。なるほど男の人でもそうであった。まさに例外なしである。
表文化と裏文化
次に、外道の世界ということについて触れてみたい。この点については、拙著『日本文化の条件』(現代『日本の風土と文化』所取) でふれた。本論に関連するかぎりにおいて簡単にのべるにとどめる。
日本人の意識では、文化は『表』と『裏』に分けられる。表文化は公的な、そして体制的文化であり、裏文化とは私的な、そして非体制的な人間関係、社会関係の産物である。日本の特徴は日本人の意識に存するところの裏文化の優越にある。わたしたちの間では表文化はウソの世界だと考えられている。
ヨーロッパやアメリカの文化にも、もちろん表と裏の文化がある。だが、そこでは裏文化は積極的な独自性をまったく持たない。それに対し日本人には裏世界だけが真実だという感覚がある。一例をあげると、芭蕉は『奥の細道』をトボトボと歩いたからこそ自然と人生の真実に触れた。もし東海道を通り、ぬりかご(塗駕籠)をうたせるか、駿馬で走ったら、あの芸術は成立しなかったであろう。
お茶でもくつろぎと略儀を旨とした裏千家の方がはやるし、バス通り裏といえば、おむつのにおいやオムレツのにおいとともに人生の真実が流れている。表通りというのはガソリンのにおいとウソと虚栄が満ちている、といった受け取り方が日本人の心理であろう。
ここに日本の世界には外道というものが展開する理由がある。外道のせかい、それは欧米では異端であり、文字どおりのアウトローに世界である。日本人の考えるように外道とは外の道異端の道、ぬけ道ではない。道そのものがないのだ。第一この字の原義がそうである会社や家庭がおもしろくない場合、人間がまずフラストレーションの解消を求めるのは異性との接触であろう。この場合、アメリカでは夜の女はいるが、それと付き合ったことがはっきりすれば、社交界から突き離される。そういう連中と気楽に付き合えるのはまた旅行者だけであろう。またクラブなだで女性と接触しょうとすると費用がかかり、高級社員の収入ぐらいでは手におえない。
ニューヨークの黒人街のひどさは日本にもよく報道されているが、そのほかにも白人【人間のゴーストタウン】がある。ここは、かつては立派は会社に勤めていたが、フラストレーションがやりきれなくなって酒をあおって落ちこんだ人がうごめく世界だ。何ともいえない凄まじい一角である。
アメリカ人の酒はスタンドバーであおるだけである。そこにも女性はいることはいるが、ここはいわばアウトローの世界なので、ギャングの彼女かもしれないし変なヒモがついているかもしれない。どんな一流の店へ行っても、アウトローの世界に接しているところの女性に交渉を持つことは【危険】と接触する可能性を持つ。
特殊な人間関係
最後に日本の人間関係はアメリカのそれと異なっていることについてふれておきたい。職務上、上役と部下というのはタテの関係である。異質なものが異質性ゆえに結合する関係だ。
日本はこのかんけいだけが発達し、ヨコの関係が発達していない。ヨコの関係v社会的に機能しないということを、東大の中根千技叶氏は指摘した『タテ社会の人間関係』。ヨコの関係とは、同質なるものが同質性ゆえに結合する関係だ。
わたしの指摘したいのは、その場合、日本のタテの関係、上役、部下の関係は、ヨーロッパ、アメリカのように一つではないという点である。みごとに表のタテの関係と裏のタテの関係が両立している。欧米がタテとヨコの関係のバランスがとれに織物のような社会であるとするなら、日本はタテだけの世界だが、それに近代化を可能ならしめるとともに、その社会を特殊なものとした要因なのである。
ヨーロッパの場合は表だけの関係である。そこでは課長と部下という形だけの関係しかない。だが日本では、リーダーというか、上に立つ人の理念の一番大事なことは、職務上の上役だけであってはならない。広く、遠い視野、より正確で早い決断、変化により早く正しく対応する能力、人間評価能力といったアメリカ風の管理職の資格だけでは日本では不充分なのだ。
そういう資格よりも上役は人間的に下役よりも上なのだということが不可欠で基本的な資格になっている。人間的に上とはちゅうしょう的ではっきりしないいい方だがvこれは道徳的に上ということではなく、人間味の点に求められる。それを単純化していえばこうだ。
平社員は自分のことだけ考えていればいい。だが、ちょっと上になり、三人でも部下をもったならば、自分のことだけ考えていないで、会社のことともに三人の部下のこともたえず頭の中においてかなければならない。課長になれば三十人、もっと上になると百人部下がえる。会社との関係も深くなって行く。次第に自分のことよりも部下のことを思う量がふえてくる。自己よりも他を思う量が多くなったときが真の管理者たるの資格を得たときだ。社長などトッブになると、明治憲法の天皇の理想象と同様、自分のこと-プライバシーはまったくなしで、人のことだけを思っているという人間が理想と考えられるにいたる。
なぜ日本人は極端に変心するか
戦後なんでも日本人の悪口をいえば通った時代、そこで、しきりに流行したのが、ベネディクトがその著『菊と刀』で刻印づけた、日本の文化は罪の文化でなく、恥の文化だおいう考え方である。ヨーロッパ文化は、すべての人が唯一絶対者である神の前で最後責任をとらねばならぬという基礎前提の上に成り立つ。自分の罪という意識が、はっきりそこに自覚される。しかし、日本には唯一絶対の神は存在しない。それは多神の世界である。
したがって、日本人の思考と行動を規定する道徳原理は、神の前の良心といったものではに。他人の前で【恥】をかかねばよいというだけのことになる。世間の目に逃れさえすれば、どんなことをしても自分自身の心にになんらやましいことはないということになる。日本人はこういう意味で典型的なオボチユニストである。ベネディクトはそういう意見だった。
戦争中、対中心理謀略作戦に総事していた彼女は、戦時中の日本人捕虜が、捕虜になるまで、は徹底的に反抗するくせ、捕虜になったとたん、今度は敵に献身するという極端な変心をするのはなぜかという疑問を持った。