译文:纵式社会的人际关系
对此,人们把不问资格的异同,仅以某一地域、所属单位,即以一定的范围划界而构成的集团称为“场所型”,例如某村的成员等。以企业为例:“车工”是“资格(属性)”,而“P公司的职员”则是按“场所”的划分方法。同样,教授、办事员、学生等等是按“资格”划分;而“R大学的成员”则是指的“场所”。任何社会中的个人,都从属于由资格和场所构成的社会集团或社会阶层。由完全一样的资格和场所构成的社会集团是十分鲜见的;一般都是两者交错构成两个不同的集团。值得注意的是,根据笔者的观察,发现在有的社会中,“资格型”集团的作用大于“场所型”集团;而在另一些社会中,“场所型”集团的作用则大于“资格型”;甚至在有的社会中,两种类型的集团平分秋色。
上述作用方式和一定社会中人们的价值观念有着密切的关系,这一点是考察某一社会的结构的基本点。在这一点上日本社会和印度社会代表了两种极端典型的社会结构。日本人的集团意识是围绕着“场所”形成的;与此相反,印度人特别注重“资格”,这充分反映在由职业和身分划分的社会集团,即“种姓制度”上。在社会人类学的结构分析命题中,象日本和印度这样在理论上相互悖反的社会类型是很少见的。中国以及欧洲各国的社会则处于日本和印度这两个极端之间(更偏于印度一侧)。这里要分析的是,强调“场所”的日本社会集团的特点。日本人在向别人介绍自己的社会地位时,更喜欢突出场所而不是资格。他们往往不提自己是记者或工程师,而是向外人介绍说我在某某公司工作。同时,别人最想了解的也首先是工作单位,其次才关心你是记者、还是印刷工人或者工程师、办事员等等。
有时,听对方介绍说是某某电视台的,心里以为他是导演或是摄影师,后来一问才知道是开车的司机。从这里可以明显地看出:对日本人来说,场所,即某公司或大学这类框框,在集团构成和集团意识上起着重要的作用;而个人的资格问题则是第二位的。在日本人的意识当中,并不认为“公司”是与个人缔结了一定的契约关系的企业体——即存在于自身之外的客体,而是与自我连成一体的“我们的”公司。他们有时甚至把公司视为自己的生命,带有浓厚的感情色彩。于是,由此产生出“A公司不是某股东的财产,是属于我们大家的”之类的说法。在这种朴素认识面前,任何新思想也无能为力,这表现了日本文化的特殊性。根植于日本社会之中的这种独特的集团意识,明确地体现在“家”的概念中,它渗透到日本社会的每一个角落。法学家和社会学家曾经对日本的“家族制度”进行过彻底的分析。随着现代化的进程和新宪法的颁布,大家确信旧式的“家族”已经消失了。
上述观点是把“家”看成是封建道德规范的产物而加以论述的,然而对于“家”作为社会集团的性质与结构则缺乏深入的考察。我认为构成“家”的最基本要素,并不在于继承家业的长子夫妇与年长的父母共同生活的居住形式,或是“家长特权”这种权力形式;“家”实际上是一个生活共同体,如在农村则是一种经营体。它是由家庭成员(大多数场合是由家长系的家庭成员构成,有时也可以包含家族以外的成员)构成的,是界线分明的社会集团的一个单位。换言之,是一种由住宅(共同生活)或是经营体为界定范围而形成的社会集团。必须引起注意的是,在“家”集团内部的人际关系比其他任何人际关系都重要。因此,从外面娶进来的妻子、儿媳,要比从家里嫁出去的亲姐妹重要得多。亲兄弟成家之后分开居住,便被认为是属于另一户了;而女婿,虽原是外人,却能取得家庭成员的资格,比成家后单过的亲兄弟重要得多。这情形同印度一类的社会明显不同。在印度,兄弟姐妹的关系(基于由同父同母所生这一共同资格的关系)永远不会改变其重要性。从理论上说,兄弟姐妹关系作用越强,“家”的社会独立性就越弱,现实的印度社会中就不存在日本这样发达的家族制度。可见,构成资格型集团的势力和构成场所型集团的势力是相互对立的。按照在日本式家族构成中起着重要作用的场所型集团的原理,自然家庭成员中可以包括不同资格的人。在日本的社会现实中也正是如此:有不少家庭让毫无血缘关系的外人做财产继承人;有许多帮工或管家被看作家庭的一员,享受与家庭正式成员相同的待遇。店主人把自己的女儿嫁给管家,让管家继承家业,这
类事例足以证明上述原理。在日本,社会集团的构成原理集中体现在“家”这一概念之中。全体日
本人(至少在江户时代中期以后的全国农村中)都处于这种家庭制度之下。它表明,它场所为基础构成的集团是日本社会结构的一大特色。在日本历史上出现的“一家老小”是大于家庭的集团形式。它的构成同样符合笔者提出的以场所为基础的方式。
把“一族”(有血缘或亲属关系的人)和“郎党”(家臣、部下)合为一体,构成一个社会集团。在集团内部常出现联姻现象,使两部分人之间的界线变得模糊不清。在现代社会里,“家”或是“一家老小”这类的概念,演变为“国铁一家”这样的集团,它代表日本的全国铁路系统。由工人和管理人员联合组成的联盟强调“劳资协调”,同舟共济。在家族制度已在形式上崩溃的今天,个人依然经常作为家族的一员出现,而职工的家属也往往与职工本人一样,被视为集团内成员。以场所为基础的社会集团意识,在日本的各个历史时期,都被作为道德准则而加以强调,这一道德准则来源于传统的正统观念,并具有适应日本社会结构的机能,因而包含着相当大的可行性。前文已说明,以同一场所为基础而组成的社会集团,包括不同资格的成员。下面我们要进一步探讨,这种包括不同资格成员的集团,是用什么方法来促成其成员的凝聚力的。由具有同等资格的成员组成的集团,因为成员性质相同,不必采用特殊的方法就可以构成集团,它具有明确的排外性。
当然,在外力的影响下,集团的作用会有所变化,但是,在形成集团的诸因素中,集团成员所具有的同等资格是最基本的,其它条件是次要的。以场所为基础构成的集团,其基本形式只是一些简单的群集,自身不包含能够构成社会集团的、内在的积极因素。要在上述条件下形成社会集团,需要具备有力而持久的界定场所作为外在条件,诸如具有经济关系的“家”或是“部落”,企业组织或官僚机构等等。
原文:タテ社会の人間関係
これに対して、「場による」というのは、一定の地域とか、所属機関などのように、資格の相違をとわず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合をさす。たとえば、××村の成員というように。産業界を例にとれば、旋盤工というのは資格であり、P会社の社員というのは場による設定である。同様に、教授・事務員・学生というのは、それぞれ資格であり、「大学の者というのは場である。どの社会においても、個人は資格と場による社会集団、あるいは社会層に属している。この両者がまったく一致して一つの社会集団を構成する場合はなきにしもあらずであるが、たいてい両者は交錯して各々ニつの異なる集団を構成している。そこで興味あることは、筆者の考察によれば、社会によって資格と場のいずれかの機能を優先したり、両者が互いに匹敵する機能をもっている場合があることである。
この機能のあり方は、その社会の人々の社会的認識における価値観に密接な相関関係をもっている。そして、そこにその社会の構造を端的に考察することができる。この点において最も極端な対照を示しているのは、日本とインドの社会であろう。すなわち、日本人の集団意識は非常に場におかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト――基本的に職業・身分による社会集団――である)におかれている。インドの社会については本論で述べる余地がないが、社会人類学の構造分析のフィールドとして、日本とインドほど理論的アンチテーゼを示す社会の例は、ちょっと世界中にないように思われる。この意味では中国やヨーロッパの諸社会などは、いずれも、これほど極端なものではなく、その中間(どちらかといえば、インドよりの)に位するように思われる。さて、本論である、場を強調する日本の社会集団のあり方の分析にはいろう。日本人が外に向かって(他人に対して)自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先することである。記者であるとか、エンジニアであるということよりも、まず、A社、S社の者ということである。また他人がより知りたいことも、A社、S社ということがまず第一であり、それから記者であるか、印刷工であるか、またエンジニアであるか、事務員であるか、ということである。
実際、××テレビの者です、というので、プロデュ-サーか、カメラマンであると思っていたら、運転手だったりしたなどということがある。(このごろの日本では、みんな背広を着ているので、一見しただけではちょっとわからない場命が多い)。ここで、はっきりいえることは、場、すなわち会社とか大学とかという枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているということであって、個人のもつ資格自体は第二の間題となってくるということである。この集団認織のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれている。+++この表現によく象徴されているように、「会社」は、個人が、一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自已にとって客体としての認識ではなく、私の、またわれわれの会社であって、主体化して認識されている。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてであり、全生命のよりどころというようなエモーショナルな要素が濃厚にはいってくる。A杜は株主のものではなく、われわれのものという論法がここにあるのである。この強いな論法の前には、いかなる近代法といえども現実に譲歩せざるをえないという、きわめて日本的な文化的特殊性がみられる。この日本社会に根強く潜在する特殊な集団認識のあり方は、伝統的な、そして日本の社会の津々浦々まで浸透している普遍的な「イエ」(家)の概念に明確に代表されている。「家」については、従来法学者や社会学者によって「家制度」の名のもとにずいぶん論ぜられてきた。そして近代化に伴って、特に新憲法によって「家」がなくなったと信じられている。
こうした立場は「家」というものを、特に封建的な遺徳規範などと結びつけたイデオロギー的見地から論じたものであって、その社会的集団としての本質的構造についてはかならずしも十分考察されていない。筆者の立場からすれば、「家」を構成する最も基本的な要素は、家をついだ長男の夫婦が老夫婦とともに居住するという形式、あるいは家長権の存在という権力構造ではなく、「家」というものは、生活共同体であり、農業の場合などをとれば経営体であって、それを構成する「家成員」(多くの場合、家長の家族成員からなるが、家族成員以外の者を含みうる)によってできている。明確な社会集団の単位であるということである。すなわち、居住(共同生活)あるいは(そして)経営体という枠の設定によって構成される社会集団の一つである。ここで重要なことは、この「家」集団内における人間関係というのが、他のあらゆる人間関係に優先して、認識されているということである。すなわち、他家に嫁いだ血をわけた自分の娘、姉妹たちより、よそからはいってきた妻、嫁というものが比較にならないほどの重要性をもち、同じ兄弟ですら、いったん別の家を構えた場合、他家の者という認識をもち、一方、まったくの他人であった養子は、「家の者」として自己にとって、他家の兄弟よりも重要な者となる。兄弟姉妹関係(同じ両親から生まれたという資格の共有性にもとづく閥係)の強い機能が死ぬまで強くつづくインドの社会などと比べて、驚くほど違っている。理論的に、兄弟姉妹関係の機能が強ければ強いほど、「家」(居住休としての)の社会的独立性は弱くなるのであり、実際にも、インドでは日本にみられるような「家」制度はまったく発達していないのである(いうまでもなく、日本にみられる婿養子制などというものはヒンドゥ社会には存在しない。ヨーロッパにおいても同様である)。すなわち、資格による(同じ血縁による者とそうでない者とにはっきりと分離した)集団構成力か枠による集団構成力に強く対抗しているのである。「家」の構造に明確にあらわれているこの枠による機能集団構成原理というものは、理論的に当然資格を異にする構成員を含む可能性をもち、またそれが現実的に普通みられるのである。まったく血のつながりのない他人を後継者、相続者として迎えるばかりでなく、奉公人や番頭が「家」成員を堂々と構成し、家長の家族成員同様の取り扱いを受ける場合が非常に多かったのである。番頭を娘の夫として(婿養子として)家を継がせるなど、まったくこうした考え方を前提としなければできないことである。日本における社会集団構成の原理は、このように、「家」に集約的にみられ、日本の全人口(少なくとも江戸中期以降いかなる農村においても)に、共通して「家」がみられることは、日本の社会構造の特色として、枠設定による集団構成というものがとらえられるのである。「家」よりも大きい集団としては、中世的な「一族郎党」によって表現される集団がある。この表現によってあらわされる集団構成のあり方は、筆者の提出している枠による集団のあり方をまったくよく反映している。
すなわち、一族「同じ血統、あるいは家系につながる者」と郎党とに分けるのではなく、一族・郎党一丸となって一つの社会集団を構成しているのである。そしてその間にはしばしば婚姻も結ばれ現実的にも、その差は不明確なほど両者は密着している。「家」における家族成員と番頭・奉公人のあり方と同じである。さらにこうした「家」「一族郎党」を構成した人々は、近代社会にはいると「国鉄一家」的集団を構成する。組合は職員・労働者ともに包含し、労使協調が叫ばれる。家制度が崩壊したといわれる今日なお、「家族ぐるみ」などといわれるように、個人はつねに家族の一員として、また、従業員の家族は従業員とともに一単位として認識される傾向か強い。このような枠単位の社会的集団認識のあり方は、いつの時代においても、道徳的スローガンによって強調され、そのスローガンは、伝統的な道徳的正当性と、社会集団構成における構造的妥当性によってささえられ、実行の可能性を強く内包しているのである。枠の設定によって共通の場を基盤として構成される社会集団が、資格を異にするものを内包する結果となることは、前節によって明らかなところである。そこで次に問題となるのは、このように異なる資格をもつ者から構成される集団が強い機能をもつ場合、集団結集力を導き出す何らかの方法が必ず講ぜられなければならないということである。集団が資格の共通性によって構成されている場合には、その同質性によって、何らの方法を加えなくとも、集団が構成されうるものであり、それ自体明確な排他性をもちうるものである。
もちろん、さまざまな条件が加えられることによって、その機能の強弱は論ぜられようが、集団構成の基盤に、その構成員の同質性自体が大いにものをいうのであって、条件は二義的なものとなる。同質性を有せざる者が場によって集団を構成する場合は、その原初形態は単なる群れであり、寄り合い世帯で、それ自体社会集団構成の要件をもたないものである。これが社会集団となるためには、強力な恒久的な枠――たとえば居住あるいは(そして)経済的要素による「家」とか「部落」とか、企業組織・官僚組織などという外的な条件―を必要とする。