森田正马的成长过程[日语翻译中文]森田正馬の生い立ち
编 辑:日语论文网发布时间:2017-11-28

译文:森田正马的成长过程

波澜万丈的青春

森田正马(一八七四,明治七年——一九三八,昭和十三年)他是森田家族的大儿子出生在高知县。他的父亲是一位为人非常严厉的小学教师。据说母亲(性格刚强)胜似男子对森田十分的溺爱。用现在流行的话说森田有恋母情结的倾向。森田正马自小就十分活泼,好奇心很强,另一方面又显得十分神经质。他九岁的时候一次在村子里看到一幅色彩浓重的描绘阴间的图画以后,便经常想到人死以后的情景,他怕死,夜里睡眠不稳,常常在睡梦中惊醒,到了很大的时候夜里有时会出现尿床现象。

明治二十年(一八八七年),森田正马十四岁的时候寄宿在熟人的家里进入高知县中学进行学习。从中学两年级开始受心脏病的困扰,两年间一直接受治疗。但是之后才知道这其实是神经症。由于在校的成绩不理想他的父亲限制了他的生活费和学费。这使得森田正马十分的生气决定独自去东京学习渐渐越来越叛逆,但是向父母反抗没有效果遭受挫折,于是向父亲道歉最终还是去中学复学。森田正马在中学的时候对宗教十分感兴趣,还有对魔术,迷信,耶稣,诅咒,看相等等的书籍都去广泛地阅读。

明治八年的时候,八年间他中学毕业,他的父亲以森田正马体弱多病为由,不继续为他支付学费,使得他不能进入高等学校进行深造学习。这个期间大阪有个有钱人愿意由他出钱送到大学去学医学。森田正马成了有钱人的养子。他父亲受当时儒教思想影响深刻,考虑到父亲的强大权威受到了挑战,这个行为太大胆。这样的反抗非常的了不起,于是进了熊本第五中学学习。

知道这件事的父亲十分震惊,千里迢迢飞奔到熊本县。他的父亲以森田和他的表妹婚事作为条件为他支付学费来约束他。

这个表妹就是他后来的妻子森田夫人,森田正马刚开始在自己家里进行家庭疗法的时候作为妻子的久亥支持帮助了治疗的实施。创业初期森田夫人的作用相当大,特别是那些不洁恐怖症患者,得到她的帮助,初次体验到治愈的心情。父亲向大阪的有钱人借钱支付了学费,解决了收养的问题。就这样父亲为学费费劲心思终于顺顺利利支付了学费,森田正马也在学习上刻苦用心。据说森田正马一直是一个怪人,穿着自己再三缝制的红色棉衣,自己用两轮运货车往宿舍运行李。总是被认为是怪人,滑稽的人之类。从这个时候开始,森田正马立志刻苦学医,其中对精神医学有很强烈的把他学精的意念。森田有好几次对死的恐怖感的体验,从内心来讲跟带有巨大的烦恼有直接关系。并且森田对人类的心理现象和活动有很强的好奇心和兴趣有关吧。

森田对很多相关的事情抱有强烈的愿望的一个人。换言之他就是典型的焦虑症性格的人。森田的烦恼以及解决方法的摸索和努力是现代森田治疗法产生的原动力。烦恼,恐惧,不安,当走到绝境的时候豁然开朗实现了创造,森田正马自身证明了这点。

森田神经症的克服体验和森田疗法的成立经过

明治31年,25岁那年,进入了东京帝国大学医学部。入学后被诊断出神经衰落和患有脚气,进行服药治疗,一点也不觉得奇怪。升级考试前因为学习不在状态而感到烦恼的时候,从父亲那里寄来的学费又被送回去了。因对父亲的反感加上愤怒,森田抱着无论如何都要成功的心态开始发奋学习。抱着必死的决心和严肃的态度,停止了一直在吃的药和在进行的一切治疗。这样,进入了考试学习的状态。

于是,森田进行了令人惊讶的体验。长年困扰他的神经衰弱和脚气不知不觉消失了。这件事被认为是后来森田疗法形成的关键体验。也就是进行恐怖的体验和必死的决心对神经症的改善起了重要的作用。自主选择使之成为能够拼命(学习)的环境是很重要的。死中求活成了森田克服神经症的转机。森田在明治35年(29岁)毕业于东京帝国大学医学部之后,立刻拜师于以精神医学为志向,担任精神医学的吴秀三教授门下。当时德国的医学传入了日本。探索精神病的身体原因是日本精神医学的主流。在西欧也一样,费洛伊德的精神分析所展示的关于神经症新的理解方法也被无视了。在这样的时代,森田仍立志于神经症和精神疗法。理所当然就没有有效的治疗方法。森田开始了反复尝试并尝试了各种各样的方法。尝试了药物疗法和催眠法都如想象的一样没效果。

特别是对遇人就脸红的人治疗就束手无策了。见了就人脸红心里恐惧的人不能治愈他们,结果在治疗途中就放弃,有的患者即使来了可又窜逃回去了。

一方面,在精神病院积极推进对精神病患者的作业治疗。把这个经验积累下来。应用正规的生活法则制定合理正确的日常作息。分为学习,休息,读书,散步,工作等等。对于神经衰弱的患者有作用。但是功效只是一时的,对不安,焦虑,苦闷状态的和精神病急性期的患者彻底切断外界刺激,试用卧床法,曾取得一定的效果。

森田疗法的成立经过来说,我们知道以单纯的劝说,暗示,工作,生活等仅仅这些方式,对于困扰的人们来说是没有效果的。森田,渐渐地开始充满自信地创始自己的治疗方法。

森田正马把自己的这种疗法命名为“神经质疗法”,“我的特殊疗法”,“自觉疗法”,“自然疗法”,“家庭疗法”,但是后来森田冠以自己的名字,将其成为森田疗法。


原文:森田正馬の生い立ち

波瀾万丈の青春

森田正馬(またはしょううま、一八七四・明治七~一九三八・昭和一三)は森田家の長男として高知県に生まれました。父親は小学校の教師で非常に厳格な人でした。母親は男まさりの人森田を溺愛したといいます。現代流にいえば森田自身がマザコンぎみでした。森田は幼少期から活発、好奇心が強い反面かなり精神質でした。九歳ごろ村の寺で極彩色の地獄絵を見て、死の恐怖におそわれ、夢にうなされたということです。またかなり年長になるまで夜尿があったとみずからのべています。

明治二〇(一八八七年)、十四歳のときに知人宅下宿し、高知県立中学校に入学しました。中学二年生のときから心臓病で悩み、二年間も医療を受けることになります。しかし後にそれは神経症であるとわかりました。学校の成績の悪いのに業を煮やした父親は学費を制限するようになります。それに腹を立てた森田は、独立して勉強しようと上京します。なかなかの反骨精神の持ち主であったようです。しかしその親への反抗の試みは挫折し、父親に謝罪して中学校に復学しました。森田は、中学校に宗教に興味を持ち、ほかにも奇術、迷信、奇跡、呪詛、骨相、人相の書を読みあさるようになります。

明治二八年、八年かけて中学校を卒業しました。父親は森田が身体虚弱であること、学費が続かないことを理由に高等学校進学を許しませんでした。そこで森田は、アル大阪の金持ち医学志望者を募り、学費を援助してくれることを知り、その家の養子となります。当時の儒教文化につかられた父親の権威の強さを考えれば、その行動は大胆です。その反抗振りはたいしたものです。そして熊本第五高等学校に入学します。

そのことを知った父親は驚いて。はるばる熊本まで飛んできました。父親は森田に従妹との縁談を条件に将来の学費を支払うことを約束します。この従妹が後の森田夫人で、森田が自宅で森田療法を始めたときに、裏方としてその治療を支えました。父親は大阪の金持ちに今までの学費を払って養子縁組をといてもらいました。

さて無事に学費を父親に出してもらうことに成功した森田は、学業にも精を出すようになりました。森田はずいぶん変わり者だったといいます。自分で縫いなおした赤裏綿入羽織を着たり、自分で大八車を引いて寄宿舎に荷物を運び込んだりします。変人、ひょうきん者と見られています。このころから、医学を志、なかでも精神医学を専攻したいという思いが強まったようです。森田がいくどとなく死の恐怖を体験し、内面的に強い悩みを持っていたことと直接関係します。また森田が人間の心の現象や働きに好奇心、興味をいだいていたことも関連するでしょう。森田は多くのことに関して強い欲望を持った人でありました。つまり悩む人の典型的な性格を持っていました。森田の悩みとその解決の模索の努力が森田療法という現代においてもなお有効な治療法を作り出す原動力になりました。悩むことは創造的であることを森田みずから証明したわけです。

森田の神経症克服体験と森田療法の成り立ち

明治三一年、二五歳のとき、東京帝国大学医学部に入学しました。入学後は神経衰弱および脚気と診断され治療服薬していましたが、はかばかしくありませんでした。進級試験を前に勉強に身入らず悩んでいたとき、父からの学費の送金が送れました。父親に対する反感、憤懣とあいまってどうにでもなれという気持ちで森田は発憤しました。死んでもかまうものかと必死の思いで開き直り、今まで飲んでいた薬や治療を一切やめてしまいます。そして、試験勉強に打ち込みました。

そこで驚くべき体験を森田はするのです。彼は長年にわたって悩ませ、苦しめてきた神経衰弱や脚気の症状はいつの間にか吹き飛んでいたのです。

このことが後の森田療法をつくるときの鍵体験となったと思われます。つまり恐怖に入りこりこむことの体験と必死必生の思いが神経症の症状の改善に大きな役割を果たすことです。そのためには必死必生たらしめる環境を自分の手で主体的に選択することが大切です。死中に活を求めたことが森田の神経症克服の転機となります。森田は明治三五年(二九歳)東京帝大医学部卒業後、ただちに精神医学を志、当時精神医学担当であった呉秀三教授の門に入りました。そして森田はみずから悩んだ神経衰弱の治療に積極的にとりくみます。当時はドイツの医学が日本に導入されてい時代でした。精神病の身体的原因を探索してゆくことが、日本の精神医学の主流でした。西欧においても同様で、神経症の新しい理解の方法を示したフロイトの精神分析も精神医学界に黙殺されていました。そのような時代に、森田は神経症の、しかも精神療法を志したのです。当然のことながら有効な治療方はありません。森田の試行錯誤が始まりました。さまざまな方法を試みました。薬物療法や催眠術を試みましたが思ったほど効果をあげませんでした。

特に赤面恐怖の患者さんの治療にはほとほと手をやいたようです。ついに赤面恐怖は治すことができないとなかばあきらめ、患者さんが来ると逃げ回ることもあったといい。

一方、精神病院で精神病者の作業療法を積極的に推し進め、その経験を積んでゆき増した。また、ビンスワンがーの生活正規法を応用して日常生活の正確な時間割を作り、休息、読書、散歩、作業などを組み合わせ、神経衰弱の治療に当たりました。しかしその効果も一時的でした。不安、苦悶状態や精神病の急性期の患者さんに刺激を遮断したが臥褥療法を試み、ある程度のこうかをえたこともあります。

森田療法のなりたちから、単純な説得、暗示、作業、生活を正しく送ることなどの手段だけでは、悩みにとらわれている人の効果的な治療にならないことがわかります。森田は、次第に自分の創始した治療法に自信をふくめていったようです。

森田自身はこの療法を「神経質の療法」「余の特殊療法」「自覚療法」「自然療法」「家庭療法」などと命名していましたが、後に森田の名前を冠して森田療法とよればれるようになります。

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