母爱与亲子离别[日语文献翻译]母性愛と「子別れ」
编 辑:日语论文网发布时间:2017-11-28

译文:母爱与亲子离别

关于母爱,自古以来就被受到各种各样的赞扬。关于母亲对于孩子所表现的忘我精神和自我牺牲精神,经常受到高度的评价。那种自我牺牲精神是确确实实存在的,为了救孩子的性命,甚至牺牲了自己的性命的母亲也是有的。对于男女之爱的评价多多少少就都会因人而异,但说到母爱,特别是我们国家,可以说是受到所有人的绝对的评价。

像这样的对于母爱的评价,也会影响到对于动物的看法,动物的母亲为了养育小动物的行动,为了帮助小动物防御外敌侵略的行为等,有时会有很大一部分被人类所采纳,甚至连动物都能表现出那样的母爱,人类绝不能输给动物之类的教诲也在人类心中生根发芽。

然而,任何东西都不可能是绝对好的,总会在某些地方存在着两面性,所谓的母爱也被认为不可能是特例。母亲也总会存在着消极的一面。

我们作为心理学家,作为能让我们感到的母亲的消极的一面的是,最近我们国家拒绝上学症的孩子增加的问题。这不仅是特别讨厌学校,也不是狡猾地想要休息,孩子本人也是不知原因的就变成不想去学校的症状,问题从幼儿园的小孩子到大学生之间都存在,这是非常让父母与教师困扰的问题。现在这样的孩子的数量增长非常快,原因类别可以分为是多种多样的,但核心问题被认为是亲子关系的存在形式的应有状态。

母亲确实是生下孩子并要抚养他们长大的人,母亲过于强有力的抱着孩子保护他们的时候,孩子虽然成长了,但一个人独立成长也会变得很困难。那当然,想要把孩子吞掉一样的力气作用在他们身上,孩子会变得无法用自己的双脚站起来。当然,这个时候,作为为了使孩子独立成长的父亲的形象变得软弱这一点,同时也是形成问题的原因之一,这也可以说,意味着父亲本身也没有从他的母亲那里学到独立性。拒绝上学症的背景是母亲过度作用导致的歪曲——伴随父亲的软弱——从中看到的东西很多。如果说孩子的话,是因为母亲怀抱他们的力气过于强大,变得无法离开那怀抱而去学校上学。我们国家,关于为什么这样的现象急剧增长的原因还有其他很多,这次请允许我省略,在这里,让我们再稍微考虑下孩子离开母亲去独立这一点吧。

关于动物的母爱,刚刚已经稍稍提到过了,但最近动物方面到底变成什么样了呢?例如,关于日本猴子在于这一点上真的把所有的事项都做得很出色。作为母亲的猴子会非常郑重地对待孩子。不管怎样幼猴从出生开始,就带有不依靠父母的独立性,最初的一个月左右确实是母子一体生活在一起的。然而,两个月过后幼猴的活动性就高涨了,可以任意开始行动。但是,最近母猴为了不让幼猴做任性的事情,而把孩子带回自己身边。在这一点上最近和人类没什么不同。但是,幼猴出生五六个月后,如果幼猴还是经常待在自己身边的话,母猴为了拒绝孩子们,就会把他们往外推,甚至咬他们。被父母拒绝的幼猴们,把那作为一个契机走向了独立的道路。在这里,当有适当的时机的时候,父母拒绝孩子过分依赖的意义是非常深远的。

现在,稍稍举了猴子为例,在动物世界像“亲子离别”一样精彩的传说有各种各样的。从这一点考虑的话,不禁让人感到人类的母亲们难道不是失去了在适当的时机像动物们一样实行的“亲子离别”的能力了吗?关于这一点,我又有如下考虑。

费洛伊德是一个清楚的知道人类内心深处存在的本能世界的一个人。他发现了作为本能之一的近亲私通的愿望,那样的近亲私通的欲望是动物性的,动物是把近亲私通那个事就那样的状态进行着的,但因为人类把那个是给否定了,形成了持有人类文化的世界。但是,我们认为在无意识的时候还是存在着近亲私通的愿望的。然而,最近显著发展的猴类生态学研究的结果,在猴子中,母子之间的近亲私通是极其稀少的这个事变得非常清晰。关于这一点我和费洛伊德的观点不同,我的观点如下。也就是说,动物对于性欲,除了交配期之外都可以发挥自然抑制的作用,对于近亲私通也是存在自然的抑制作用的,人类宁可是从肯定欲望这点开始的,为了使性欲在交配期以外的全期间都开放,难道不会宁可肯定母子之间的性欲吗?但是,另外因为知道近亲私通的危害,就否定了近亲私通。

像这样的对于本能的肯定之后再否定的情况,可以看见攻击性。根据洛仑兹指出的观点,动物们好像天生就能抑制对同种类的同伴的攻击性。对于这一点人类是,肯定人类互相残杀的攻击性后,再根据否认那一点创造出属于人类的文化。

像这样的情况,也可用于我们所受理的关于母爱的问题。母亲无论如何也想抱着孩子,把他们放身边成长。但是,在动物的场合对于这一点由于自然的抑制力的作用,巧妙的产生了亲子离别这一特点。人类已经和所叙述的相关的性欲及攻击性相同,母亲也退去抑制力,且无论如何都肯定那一点。但是,正因为有了再一次的意识性的抑制力,才产生了类似的人类文化的吧。那对于动物可以说是性质完全不一样的母爱吧。

作为进步的旗帜肯定欲望的现代人类的活法,在很多点上作为破坏自然,而被要求反省。虽然如此,我们也并不是丢弃科学返回到以前未开化的社会。在追求不损坏自然的智慧的近代生活这一困难课题时,对于母性问题是必须要反省的问题 。


原文:母性愛と「子別れ」

古来から、母性愛ということについては、いろいろと賞揚されてきている。母親が子供に対して示し献身性,自己犠牲について、常に高い評価が与えられてきている。その自己犠牲は、まったく文字通りのこととなって、子供の命を救うために、自分の命を捨てた母親さえあったのである。男女の愛ということになると、その評価は人によって少し異なってくるが、母性愛は、特にわが国においては、ほとんど絶対的といえるほどの評価を受けてきたといってよいと思われる。

このような母性愛の評価は、動物に対する見方にも影響を与え、動物の母親が子供を育てるためにする行動や、子供に対する外敵を防ぐための行動などが時に大きく取り上げられ、動物でさえもそれほどの母性愛を示すのだから、人間も動物に劣ることのないように、といったふうの説教のたねにされることさえあったのである。

ところが、どのようなものも絶対によいということはなく、どこかに両面的なところが存在するものであり、母性ということも特別ではありえないように思われる。母性にもネガチブな面が存在している。

われわれ心理療法かとして、母のネガチブな面を感じさせることとして、最近とみにわが国において増加してきた登校拒否症の問題がある。これは、学校が特に嫌いとか、ズル休みをするとかいうのではなく、本人もわけがわからないが学校をいけないという症状であり、幼稚園児から大学生に至るまで存在し、親や教師を困らせているものである。現在では非常に数が増加し、それらをいろいろと類別することも可能となってきたが、その中核となるものは、母子関係のあり方に大きい問題があると考えられる。

母親は確かに子供を生み育ててゆくものであるが、母親が子供を抱き抱える力が強すぎるときは、子供は成長していっても一人たちすることが難しくなるのである。それはむしろ、子供を飲み込んでしまうほどの力となって作用し、子供は自分の足でたってゆくことができないのである。もちろん、この際に、子供が自立してゆくためのモデルとなる父親像の弱さということも、あわせて問題となってくるのであるが、これもいってみれば、その父親自身が母親からの自立をなしえていないことを意味している。登校拒否症の背景に、このような母性の過度の働きによる歪み——父親の弱さを伴う——を見ることが多いのである。子供はいうならば、母親の抱き占める力が強すぎために、そこを離れて学校へ行くことができなくなっているのである。わが国において、なぜこのような現象が急増したのかについては、ほかに論じたこともあるし、今回は省略させていただくとして、ここで、子供が母から別れ自立してゆく点について、もう少し考えてみることにしよう。

動物の母性愛ということについて、先にも少し触れておいたが、動物の場合はこのあたりはいったいどうなっているだろう。たとえば、ニホンザルについてみてみると、この点はまことに見事にすべてのことが行われているのである。猿の母親は赤ちゃんを大変に大切にする。ともかく子猿の方も生まれたときから、自力で母にすがりつく力を持っているから、最初の一ヶ月くらいは、文字どおり母子一体となって生活している。ところが、子猿のほうは二ヶ月くらいたつと活動性が高まって、勝手な行動が始める。しかし、このころは母親は子猿にあまり勝手なことをさせないように、子猿を自分の元に引き戻す。このあたりは人間とあまり変わらない。ところが、生後五、六ヶ月にもなりだすと、母は子猿があまりにもそばによってくると、押したり、咬んだりして子供を拒否するのである。母が拒否された子猿たちは、それを契機として自立への道を歩むことになる。ここで、適切な時機がきたときに、親が子を拒否するのが非常に興味深いのである。

今、猿の例を少しあげたが、動物の世界では「子別れ」の見事な話がいろいろと存在している。このような点から考えると、人間の母親たちは、動物たちの行っている「子別れ」を適切なときに施行する能力を失ってしまったのではないかと考えられる。この点について、私は次のようなことを考えてみるのである。

フロイトは人間の心の深層にある本能の世界を明らかにした人である。彼はそのひとつとして近親相姦の願望を見出したが、そのような近親相姦の欲望は動物的なものであり、動物はそれをそのまま行っているが、人間はそれを否定することによって、人間の文化を持つことになった。だが、無意識内には未だに近親相姦の願望が存在していると考えたのである。ところが、最近著しく発展した猿の生態学の研究の結果、猿においては母子間の近親相姦は極めてまれであることが明らかとなったのである。この点について私は、フロイトと異なり次のように考える。すなわち、動物の場合は性欲に対して、交尾期以外には自然に抑制が働くように、近親相姦に対しても神前の抑制が存在しているのではないか、人間はむしろ欲望の肯定という点から、性欲を交尾期以外に全期間にわたって開放したように、むしろ、母子間にさえ性欲の働くことを肯定したのではないか。そして、その次に近親相姦の実害を知るに及んで、それを否定しようとしたと考えるのである。

このような、本能に対する肯定の後の否定というパターンは攻撃性についてもみることができる。ローレンツの指摘によって有名となったが、動物たちは同種のもの同士の攻撃性には抑制が生じるようになっている。これに対して人間は、人間同士の殺し合いという攻撃性の肯定の後に、それを否定することによって人間の文化を作り出してきたと考えられる。

このようなパターンは、われわれの取り上げてきた母性愛についてもいえるのではないだろうか。母はあくまでも子を抱きしめて手元においておきたい。しかし、動物の場合はこれに対しても自然の抑制力が働き、見事な子別れが生じる。人間はすべてに述べた性欲や攻撃性に関するのと同じように、母性についても抑制を取り外し、あくまでそれを肯定する。しかし、そこにもう一度意識的な抑制をもってこそ、人間らしい文化が生まれるのではないだろうか。それは動物とは次元の異なる母性愛といえるだろう。

進歩を旗じる視としての欲望の肯定による現代の人間の生き方は、多くの点で「自然」を破壊するものとして反省されてきている。さりとて、われわれは科学を打ち捨てて以前の未開の社会に還ろうとしているのでもない。自然の知恵を損うことなく近代的に生きるという難しい課題を追求してゆく上で、母性ということも多くの反省を要する問題であると思われる。

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