译文:盂兰盆 四季的仪式活动
盂兰盆 “盂兰盆”实际上是指在“乌蓝婆拏”极度痛苦苦难的意思,在汉语的意思中,可以说是“倒挂”的意思,可以拯救那些被倒挂着的痛苦的,就是盂兰盆会的供奉。“盂兰盆的盆”是“救苦的器具”。释迦牟尼的弟子目连,知道其母亲坠入了饿鬼道而变得消瘦无力,正饱尝着给她吃的食物都变成了一团火而不能吃的倒挂着的痛苦,于是目连就向释迦牟尼询问解救其母亲的方法,说在七月十五日,僧人自恣的那天,为了七世的父母,供奉百种味道的饮食,五种野菜,供养四面八方的僧人,借助于这个力量。目连于是就用这个方法来救了他的母亲。自那以后的七月十五日,因此变成了供奉那些结束了安居修行开始进入休假的自恣日的僧人们,并奉上百味,香花,灯烛,供上三宝的节日。在我国, 把在推古天皇十四年(六〇六)举行的叫做嚆矢。盂兰盆不只是祭祀过往的死者,还有慰劳叫做“生灵”的现在的父母。在《盂兰盆经》里,
愿使现在的父母百年无病,无一切苦恼忧患。
有这样的发愿文,在《报恩经》里,记载着,亡者的灵魂,在七月十四的卯时到来,次日十六日的午时离开,所以从十四日开始 ,盂兰盆会开始。
盂兰盆的准备仪式活动 七月一日,在关东被称作“打开地狱之门的日子”,“地狱的入口”,“亡者开始旅行的日子”等等,在安房等地,有亲人刚离世的人家会挂上灯笼,在茄子地里用耳朵贴着地面的话,说是可以听到灵魂叫喊的声音和地狱门打开的声音。所谓的“盆道”,就是指在灵魂来去的时候,把山上到村里的下山路上的杂草割平,这叫做“给灵魂尊者开路”。还有,把到墓地的道路上的草割除,把这个叫做“扫墓”,又叫做“墓払”。日期一般是七天或十天。在上総国,盂兰盆节的第一天,作为“盆供打”仪式的一部分,刚有丧事的家庭供奉从亲友那里得到的白米二升到五升,在家里供养已故亡者,并在这些米中加入自己家的新米,一起送到寺庙。在东北,从第一天开始燃烧盆火。在用这个火烧加了味增的饭团和蘘荷。这被称作保持健康的咒语。在土佐地方,从六月三十日开始用火点燃灯笼,用精美的食物宴请亲友。在信州诹访,亲友们会聚集在有丧事的亲戚家里,在院子里用竹子撑起灯笼。在其顶上绑上新鲜的叶子,这叫做灵魂的标记,竹竿的话,可以是杉树的,日本扁柏的,六,七只的样子。在志摩叫做“deshikoshi”,在柱子的上端,用棒绑成十字,然后用杉树叶,竹叶将三方的前端绑住,在岩手附近,听说寺院什么的会升白色的旗子。在阿波什么的,也有相同的风俗,把它叫做“招旗”,说是招揽饿鬼。
宫中的盂兰盆会 在宫中,推古天皇十四年(六〇六)七月十五日,设立了斋会,在齐明天皇三年(六五七),在飞鸟寺的西边铸造了须弥山的像,举办了盂兰盆会。在盛武天皇天平五年(七三三),变成在大膳职供奉,在平安朝年代繁盛起来,这个仪式,是在清凉殿东孙厢里铺上大大的草席,铺满三间大坐席的内座。各种颜色涂抹在长柜上,放置在广铺上,然后殿上的人把盂兰盆节要用的东西放在长箱子上。用纸和莲叶包住盆。天皇亲自来回三次,把物品赠送于寺庙。
幕府盂兰盆会 在镰仓幕府文治二年(一一八六),举行万灯会(吾妻镜),在室町时代将军们会参拜等持寺,鹿苑寺,相国寺等,从大草家用莲叶包着饭进供。
在江户时代有作为将军代理的侧重们参拜在日光,上野,芝灵还有其他的寺院的事。在佛堂当值的女官负责每天更换供品,将军,御台所做早晚的礼拜,在十三日,赐予那些可以晋见的单亲女官红包以及食物,在十四日赏赐物品给双亲健在的女官,在盂兰盆节中,除了这三家以外,还有别的进献物品,不需要当面拜谢。
生灵仪式 所谓的生灵仪式正如前面所叙述的,是指慰劳现在的父母。如果进入了七月的、、、话,就会有款待的事,也可以叫做“感恩活着的人”。令人惶恐的事,有从八号到十三号不管现在父母还在不在世,都要款待的风俗。这是从室町幕府时代开始就有的事。到正亲町天皇的时候,皇宫寺院,没有尼姑灵前守夜的风俗,但是,从这以后,就有了让人灵前守夜的习俗。有七献。一献是烹杂(杂煮),有煮到黎明这样的事。
早市 也叫做“盆市”。是指在盂兰盆节举行之前,贩卖精灵祭,装饰物,盂兰盆舞蹈等等的用品的市场。用千屈草(沟萩),麻壳,白黄的茄子,茭白,瓜,茄子等做出来的牛马,灯笼,还有盂兰盆舞蹈要用的太鼓,团扇,大小木刀,三尺的布手巾,奇特的头巾,作须,灯笼,提灯,小行灯等和大小陶器,上供品,饭盒,铇子挂等等。江户,在吉原仲町,深川橹下,小石川传通院前,本町四目,根津门前,大阪,在顺庆町,松尾町等,充斥着“大家来看一下吧”的叫卖声。
所谓的盂兰盆会,就是贩卖桃子,柿子,梨等的粗糙东西,卖麻壳的叫着:“麻壳,上板的薄木纸。”草市以十三号的拂晓为起始,但是,后世,一般定为十二日的夜晚。茭白,稻草的牛马没有上方。
迎灯笼 在盂兰盆节,因为说精灵都是十四日来的,所以把灯笼挂在门外的习俗从镰仓时代就开始盛行了,在《明月记》宽喜二年(一二三〇)七月十四日条里有记载着:
近年民家、今夜立二長竿一、其鋒付下如二灯楼一物纸张上挙レ灯、遠近有レ之,逐レ年其数多,似二流星一。
这个灯笼从室町时代开始沿用,逐渐变得独出心裁。在《宣胤卿记》文龟四年(一五〇四)七月十四日条里可以看到有:
燈楼進二内裏一御悦喜之由有二御返事一。
这个灯楼即是灯楼,因为也是有以前的人们用长矛插螃蟹的地方的产物,所以不是普通的照明。这个好像好似从永正年间开始的。在江户年代初期的《おとぎばうこ》里记载着:
做了很多的灯笼,或者在祭祀的架子点火,或者商家的屋檐上点火,又或是圣灵的墓地前,石塔的前面点火••••••
即使是《日本岁时记》的图,也有描绘切子灯笼,手桶形插着莲花的灯笼。还有在江户,也有把白张提灯作为书,但是也写着六字名号的,文政年中废弃了切子灯笼和白盆灯笼,画有彩色的花草的提灯开始流行。大阪的话,使用用黑色和淡墨色画图的提灯,在小户,把小提灯挂在格子门窗内。盆灯笼也有代替原来使用蜡烛而用一个叫做秉烛的东西。
人死亡之后的三年或者七年之间,从六月三十日开始到七月三十日,有悬挂一种叫做“高灯笼”的习惯。在这种灯笼的里,独具匠心的是前记佞武多,长崎灯笼,岛原灯笼和熊本山鹿灯笼。
在京都的一些地方,从前,有进献灯笼的习俗,一些诸大夫之间,有在屋檐上并排挂灯笼的习惯,允许其他人的拜见瞻仰。这也是在箱子形的台子上,尝试多种多样的别具匠心的设计。
原文:盂蘭盆 四季の行事
盂蘭盆「盂蘭盆」は、実は「烏藍婆拏」で甚だしい苦しみを意味し、漢訳では「倒縣」といい、倒に懸けられるやうな苦を救ふのが、盂蘭盆会の供養であり、「盆」は「救レ苦の器」である。釈迦の弟子目連が、母が餓鬼道に堕ちて痩せ衰へ、食物を与えると火になって食べられない倒縣の苦を嘗めていることを知り、釈迦にその救助を諮りしたところ、七月十五日、僧自恣の日に、七世の父母のために百味飲食、五菜を供へ、十方の衆僧を供養し、その力にすがれといった。目連はかくの如くにして母の苦を救うたが、爾来、この七月十五日、僧が安居を了って初めて休暇に入りし自恣の日に供養し、百味、香花、燈燭を供へ、三宝に供養する日となったので、我国では推古天皇十四年(六〇六)に行はれたのを嚆矢とする。盂蘭盆はかく死者の精霊を祀るのみか、「生御霊」といって現存の父母をも慰める。『 盂蘭盆経』に、
願使三現在父母寿命百年無病、無二一切苦悩之患一。
と発願の文があり、『報恩経』には、亡者の精霊は、七月十四日卯時来、次日十六日午時去。と記しているので、十四日から盂蘭盆会が始まるのである。
盂蘭盆の準備行事 七月一日は関東では「地獄の釜の蓋のあく日」「釜の口」「亡者の旅立つ日」などと称へ、安房方面でも新しき死人ある家は燈籠をたて、茄子畠で耳を地にあてると、精霊の叫ぶ声や、釜の蓋のあく音が聞えるといふ。
「盆道」といって、精霊の来易いやうに山から里へ下り路の草を刈り払ひ、これを「精霊様の道あけ」といひ、又墓への道の草刈をもする。これを「墓薙」とも「墓払ひ」ともいふ。日取りも七日、十日などある。上総国では一日に「盆供打」とて新盆の家へ親族から白米二升乃至五升を供えると、家ではその人を饗し、その米に自分の米を添えて寺に送る。東北では一日から盆の火を焚く。この火で握飯や茗荷に味噌をつけたものを焼く。これ、保健の呪であると。土佐方面では六月三十日から火を燈籠に点じ、精進料理で親族を招く。信州諏訪は新盆の家へ親族が集り、庭に燈籠の竿を立てる。頂上は生葉をつけ、精霊の目印といひ、竿も杉い、檜で、六、七間のものである。志摩では「でしこし」といひ、柱の上端に棒を十字に組み、杉葉、笹を三方の先端に結び、岩手地方では寺方で白色の旗をあげるといふ。阿波でもこれがあり、これを「招き旗」といひ、餓鬼を招くといひ。
宮中盂蘭盆会供 宮中では推古天皇十四年(六〇六)七月十五日、斎会を設け給ひ、斉明天皇三年(六五七)には飛鳥寺の西に須弥山の像を作り、盆会を行はせ給うた。聖武天皇天平五年(七三三)、大膳職でこれを供えることとなり、平安朝時代には盛んに行はれた、この御儀は、清涼殿東孫廂に広莚を舗き、大床子の御内座を御三ノ間に舗く。雑色は長櫃をかいて広舗におく。次に殿上人は御盆のものを長櫃の上におく。紙や蓮葉を以って盆を包むもである。天皇御三度ありて、この品を寺に贈られるのである。
幕府盂蘭盆会 鎌倉幕府では文治二年(一一八六)、万燈会を行い(吾妻鏡)、室町時代には将軍が等持寺、鹿苑寺、相国寺などへ参旨、大草家より飯を蓮で包んで進める。
江戸時代には将軍名代として御側衆が日光、上野、芝霊たまやそのほかの寺院へ参詣のことがあった。仏間掛の女中は供物を日日取り替へ、将軍、御台所は朝晩の拝礼あり、十三日に御目見え以上の片親ある女中へ目録及び御料理を下され、十四日には両親ある女中に右同様下賜あり、盆中は御三家そのほかより献上品あるも、面謁はない。
生見玉 生見玉(生御霊)は前述の如く現在の父母を慰めることで、七月の月に入れば饗することあり、「生盆御目出度」ともいふ。かしこきあたりでは八日から十三日まで御父母の有無に関らず饗あり。室町時代頃よりあったことで、正親町天皇の御頃までは宮門跡、比丘尼の伺候はなかったが、これより以後、伺候せられる風習となった。七献あり。一献烹雑(雑煮)で、早暁に及ぶことがあった。
早市「盆市」ともいふ。盂蘭盆に先だち、精霊祭、飾物、盆踊等の用品を売る市をいふ。鼠尾草(みそはぎ)(溝萩)、麻殻(をがち)、白黄の茄子、真菰、瓜、茄子等で作った牛馬、燈籠、また盆踊の太鼓、団扇、大小木刀、三尺手拭、奇特頭巾、作髭、燈籠、提灯、小行燈等や大小土器、供饗(くぎゃう)、破子、鉋掛等である。江戸は吉原仲ノ町、深川櫓下、小石川伝通院前、本町四ツ目、根津門前、大坂は順慶町、松尾町等で、売声に「みいろーーーー」
盂蘭盆会といふは、桃、柿、梨の粗末なもの、麻殻は「をがら、上板の経木」と売歩く。草市は十三日暁を専としたが、後世、十二日夜となった。真菰、藁の牛馬は上方にはなかった。
迎燈籠 盆には精霊が十四日に来るといふので、燈籠を門外に出す風習は鎌倉時代から行われた。『明月記』寛喜二年(一二三〇)七月十四日条に、
近年民家、今夜立二長竿一、其鋒付下如二灯楼一物纸张上挙レ灯、遠近有レ之,逐レ年其数多,似二流星一。
とあり、この燈籠は室町時代に入りて追々趣向を凝らすこととなり、『宣胤卿記』文亀四年(一五〇四)七月十四日条に、
燈楼進二内裏一御悦喜之由有二御返事一。
とあるのを見ると、この燈楼は燈楼でも、かうした人が鉾で蟹をさす所の作物があるのであるから、普通の照明ではない。これは永正ごろからあったらしい。江戸時代初期の『おとぎばうこ』に、
いろの燈籠をつくりて、あるいはまつりの棚にともし、あるいは町屋の軒にともし、また聖霊の塚にをくりて、石塔の前にともす・・・・・・。
とあり、『日本歳時記』の図にも、切子燈籠と、手桶形に蓮をさした燈籠を描いてをる。また江戸は白張提灯を本としたが、六字名号など書くもあり、文政年中は切子燈籠、白き盆提灯は廃れて、彩色の草花を書いた提灯が流行した。大坂は提灯に黒と薄墨で描いたのを用ひ、小戸では小提灯を格子内に吊す。盆燈籠には蠟燭の代り「秉燭へいそく」といふものを用ひたのもある。
人死亡して三年あるいは七年の間は六月晦日より七月三十日まで「高燈籠」とて吊した。この燈籠のなかで趣向を凝らしたものは前記佞武多、長崎燈籠、島原燈籠や熊本山鹿燈籠となっている。
京都の御所へも昔は燈籠を献上し、諸大夫ノ間の縁にこれを並べられ、諸人の拝観を許された。これもをその箱形の台の上に種々の趣向を試みたものであった。