共同的宗教感觉[日语外文翻译]共通する宗教的感覚
编 辑:日语论文网发布时间:2017-11-28

译文:共同的宗教感觉

从调查结果来看,很多日本人拥有极其相似的宗教感觉和想法。

其中,有几点多少跟跟宗教有关系的想法。

1.对于祖先的意识

2.认为人的存在感很微弱

3.命运论的看法

4.确信有因果报应

5.对于现实利益的期待

这些表现,不管跟大部分日本人“无宗教”意识有关否,至少是很多人共通的。

换言之,无论是有还是无信仰的人都认为,这种意识跟信仰的有无几乎无关。可以说几乎所有的日本人都持有这种观点。

(一)与祖先相关的心结

这里主要来介绍下关于 “祖先意识”的想法。更简单的说就是祖先崇拜。无论是什么,只要是跟祖先相关联,就认为是很重要的。这种倾向,在调查中到处都能看到痕迹。

第一,关于这点最直接的询问就是“与祖先先关的心结”的质问。回答感应到跟祖先

们有着很深的心灵上的联系的人有59%。说起祖先,调查回答者联想到的恐怕只是祖父或祖母的脸庞吧。且先不谈祖先的范围,60%的国名对于这样的祖先有着很深的心灵上的连结。

第二,正如前面提到的叩拜佛坛的人比例占到57%。所谓的叩拜佛坛行为跟尊敬先祖或是吊慰先祖有着密切的关系。叩拜佛坛的人越多,那么,也就预示着拥有祖先意识的人越多。

第三,所谓的叩拜佛坛,算是在日常生活当中的意识的话,那么所谓的扫墓行为就只在限定的日子里才能看到的崇拜或供养先祖的行为。对于祖先的意识,如果用扫墓来衡量的话,90%的日本人认为祖先是很重要的。

第四,稍作变动从自身信仰的意义来看,回答跟祖先有关的人相当之多。在信仰宗教的892人当中,询问到关于信仰的意义时得到的自由回答当中,回答有尊敬先祖或是吊慰先祖的意义的人站到12%,排名第三位。对于这个问题,只占全体调查者的三人之一,甚至是只占百分之十多点。所以与其所很多人还不如说很少来得妥当。实际上,如果从全国国民的比例重新来看待的话,认为信仰的意义就是尊敬先祖或是吊慰先祖的人所占比例充其量只有4%。但是不管怎么说,在这里我们还是看到了日本人 与祖先之间的关联是很深的。为什么这么说呢,首先,这只是自由回答的结果,其次,支撑心灵、抚慰心灵,甚至是家族安全等这样的问题上,在一定程度上是有很大关系的。

除以上四点之外,与“祖先心灵上的关联”多少有关系的因素还有存在的。比如与“死后的灵魂”和“佛的存在”先关的事物。关于“死后的灵魂”回答“确实存在的”或是“有可能存在”占到54%。超过半数国民。还有,关于“佛的存在”的回答数比前者稍低些,占到43%。

(二)“认为人的存在感很微弱”

所谓的人间观不是宗教和无缘。各种宗教都有与之相对应的人间观。所谓认为人的存在感很微弱的人间观肯定与宗教有这些关系的吧。所谓人的存在感很微弱,对于日本人而言,完全就是常识般一样。为了准备介绍全文的问题,我们像下面这样表示出看法,是认同还是否定,询问调查对象。“人在直面重大问题时••••••结果实际上85%的人回答认为人的存在感和微弱。

这个回答的结果,甚至从不同年龄层来看,几乎全部的年龄层都在80%以上只有一个是例外的,七十岁以上的年龄层,这个团体的人虽然低于八成,从这个年龄层来看,还是有七层人认为人的存在感是微弱的。

这样的人间观,不管是老少男女可以说大多数日本人是共同的。

(三)命运论的想法

接下去小受理的是命运论的想法问题。对于这点也有86%的人是共通拥有的。具体来说,这个比例的鄂恩施这样认为的“在人间,只靠自己的力量,无论怎么做都是不能办到的这样的命运轮式存在的。可以说这是一种根本的领悟的见解。这样命运论的想法是日本国名的一种常识。

在这个结果中,如刚介绍的人间观——人的存在感很微弱——与之还有不同的特质。虽然在各种年龄层中有八成人是认同这个观点的,但是在男性中十几岁这个年龄层却是个例外。只有这个年龄层跌破60%。与平均相比,相差甚远。命运就是能够决定你的人生,对于这样的一种决定论,可以看出年轻人是持有反感的。但是从全体来看,命运论绝对渗入了日本人的思想中。

(四)确信“因果报应”

“即使别人不知道,只要你做了坏事,总会招致报应”这样认为的人占到86%。认为人的存在感很微弱的人间观以及命运论的想法,与之相同的都是大多数人共通持有的想法。在这里就是称之为“因果报应”。说起“因果报应”很明显就是来自佛教的语言。在《岩波国语辞典(第三版)》中解释到,“因果报应”就是过去以及前世造的孽招到报应的结果。还带有本来很微妙的感觉。我们日本人几乎全部都深信“只要做了坏事,就会招致报应”,这很大程度上是受到佛教的影响。

但是再思考下的话,因果报应也并不是佛教的专利。与之相似的在其他宗教里也能看到。那样的话,与其说是受到特定宗教的影响,还不如说是,超越宗教或宗派,而是与宗教心相连接的关系。

无论是在什么社会,如果不再拥有这样观点的人的话,很有可能这样的社会将难以维持吧。对于贪污、犯罪或是某种事件,变现出很关心的话,根据这些事情的走向,全国性一致认为的“因果报应”的规则将有可能被推翻。

用这个观点,根据性别年龄的不同来看结果。女性各个年龄层结果都是占到近90%的比例,而与之相反的是,男性中的年轻人认同感很少。也就是说,女性受到世代相传承,确实认同因果报应,可以说被顺利再生产。而男性中随着年龄的递减,因果报应认同的人也就更少。可以说这就是“缩小生产”。最近媒体热门报道的青少年暴力问题,也跟这种观念有关系吧。

虽然部分人有这样的倾向,但是从全体日本人来看,将近90%的人持有这种观点。可以说这是日本人全民性的常识。


原文:共通する宗教的感覚

調査結果を見ていると、多くの——極めれ多くの日本人に共通する感覚や考え方がある。その中で、多少なりとも宗教に関係がありそうなものをあげると、

1.祖先に対する意識

2.人間は弱い存在だという見方

3.運命論的な考え方

4.因果応報という確言

5.現世利益についての期待

などがある。これらは、日本人の大部分が、無信仰であるにもかかわらず、多くの人々に共通している。別の言い方をすれば、信仰のある人でもない人でも、信仰の有無とはほぼ無関係に、日本人ならほとんどすべての人が、このような感覚や気持ちを持っている、と言える。

(一)祖先との心のつながり

ここで触れようと思うことは、抽象的にまとめれば「祖先に対する意識」であるが、もっと簡単に、祖先崇拝、と言ってもよいかもしれない。いずれにせよ、祖先との結びつきを感じたり、その結びつきを大事に思ったりすることである。このような傾向は、調査結果のあちこちに見られる。

第一―この点について最も直截にたずねたものが、<祖先との心のつながり>関する質問である。祖先の人たち深いこころのつながりを感じるか、という問いに対して、五九%の人は、心のつながりを感じる、と答えている。祖先の人たちと言われて調査の回答者が思い浮かべるのは、おそらく直接に顔を知っているおじいさんかおばあさんぐらいまでの範囲であろうが、「祖先」の範囲はともかくとして、深い心のつながりを感じているのである。

第二―前にも触れたことだが、仏壇を拝む人の割合は、五七%であった。仏壇を拝むと言う行為は、祖先を敬う、あるいは、祖先をとうらう、ということと深く結びついている。仏壇を拝むと言うの人の広がりの大きさは、そのまま、祖先を意識すると言う気持ちが多くの人々の間に存在していることを示すものである。

第三―仏壇を拝むと言うことは、日常生活における意識であるなら、墓参りをする、と言う行行動は特別な日に限って見られる祖先崇拝・祖先供養の行動である。祖先に対する日本人気持ちを墓参り、と言う物差しで測るとすれば、日本人の九割は、祖先を大事にする子持ちをもっていると言える。

第四―少し話は変わるが、自分自身とっての信仰の意味として、祖先に関係する答えをした人が、かなりいる。何か宗教を信仰しているという人、八九二人に信仰の意味を尋ね、自由に回答してもらったところ、その答えの中で、祖先を敬う、とむらう。と言う意味のものは、一に%。順位でいうと第三であった。この質問は、対象が全体の三部の一しかないこと、さらに、その中で野一割強でしかないこと、と言ったほうがよいように見える。実際、これを、全国民の中での割合に直してみると、信仰の意味が祖先を敬うこと、うなやうことにあると言う人の割合は、たかだか、四%に過ぎない。しかし、それにもかかわらず、ここに、日本人と祖先との結びつきを見ることができるのではないだろうか。なぜなら、ひとつには、心のささえ、心の安らぎ、さらには、家内安全、というようなものも、ある程度まで祖先崇拝と重なりあっているからである。

以上の四点以外にも、「祖先との心のつながり」に多少関係がありそうなものがある。それは、<死後の幽霊>と<仏の存在>二関するものである。死後の幽霊について、「確かに存在する」または、「存在するかもしれない」と答えた人は五

四%。国民の半数以上にのぼっている。また、仏の存在については、それより少し低いが、四三%と言う割合である。

(二)「人間は弱い」

人間観というものも宗教と無縁ではない。それぞれの宗教は、それぞれの人間観を持っている。人間が弱い存在だと言う人間観もきっと日本人の宗教となんらかの関係を持っているであろう。

人間は弱い存在だというのは、日本人にとって、全く常識的なことであるらしい。この質問の全文を紹介しておくと、私たちは調査相手に、次のような見方を示し、そう思うか、そう思わないか、をたずねた。

「人間は重大な問題に直面したとき、何か心のよりどころが必要な弱い存在だ。」

その結果、実に、八五%の人が、人間は弱い存在だと思うと答えたのである。

この答えの結果は、さらに、年齢別に見ても、ほとんどすべての年齢層で八〇%以上の割合を示している。ただひとつの例外は、七〇歳以上の人たちで、このグループだけは八割を割っているけれども、この年齢層の人にしても、やはり、七割は、人間は弱い存在だと思っているのである。

このような人間観は、老若男女を問わず、ほとんどの日本人が共通にもっていると言える。

(二)運命論的な考え

次にとりあげるのは、運命論的な考え方である。これも、八六%の人々が共通している。具体的に言うと。これだけの割合の人がとが、「人間には、自分の力ではどうすることもできない、運命と言うものである」と思っていると言うことである。根底に一種の諦念を持った物の見方、とでも言おうか。この、運命論的な考え方も、日本人の国民的常識である。この結果には、先に紹介した人間観―人間は弱い存在だ―とはちがった特徴がある。これも、ほとんどすべての年齢の人は八割以上の割合で認めているが、こんどは、男の一〇代と言うグループが例外になっている。このグループだけは、六〇%全体の平均より、ずっと低い。運命が自分の人生を決めている、というような、一種の決定論に対する、若者の反発とみてよいであろうか。しかし、全体としてみれば、運命論も、日本人に浸透しているといわなければならない。

(四)「因果応報」という確信

「人には知られなくても、悪いことをすれば、いつか必ずむくいがあるものだ」と思っている人は、八六%。人間は弱い存在だと言う人間観および、運命論的な考え方、と並んで、最も多くの人々に共通しているものの一つである。

ここでは、それを「因果応報」というふうに呼ぶことにした。「因果応報」と言う言葉は、言うまでもなく、もともとは仏教の言葉である。『岩波国語辞典(第三版)』は、【因果応報】過去および前世の因業に応じて果報があること。と説明し、その本来のニュアンスを残している。私たち日本人のほとんど全部が、 「・・・・・・悪いことをすれば、いつか必ずむくいがあるものだ。」とおもっているのは、少しなならず、仏教の影響によるものであろう。しかし、考え見れば、因果応報は、必ずしも仏教の専売特許ではない。似たようなものは、他の宗教にもあるはずである。だとすれば、これは、特定の宗教の影響というよりは、むしろ、宗教とか宗派とかを超えた、宗教心そのものと結びついているのではないか。

どんな社会でも、そのメンバーが「因果応報」というような感覚を持ち合わせていなかったとしたら、おそらくその社会は、社会として存在し続けることができないであろう。汚職など、ある種の犯罪や事件に鋭い関心が向けられるのは、それらの成り行きいかんでは、この全国民的一致を示している「因果応報」のルールが付くが得されてしまう、という危惧と関係があるのかもしれない。

その意味で、注目しておくべきことは、これをを男女年齢別に見た結果である。女性のほうは、どの年齢でも九割前後の安定を示しているのに対して、男性のほうは、若い人ほど少なくなっている。詰まり、女性の場合は、世代から世代へと、因果応報という感覚が確実に伝えられ、いわば順調に再生産されているけれども、男性の場合には、年齢が若くなるにつれて、因果応報という感覚を持っている人が少なくなっている。これは、"縮小再生産"ように見える。昨今のマスコミをにぎわしている青少年の暴力の問題などは、こういったことと関係があるのだろうか。

しかし、部分的には、このような傾向が見られるにせよ、日本人全体として見る限り、「因果応報」は、九〇%に近い人々が持っている感覚であり、日本人の国民的な常識と考えてよいと思われる。

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