译文:神道和日本国民
神道这两个字是在《日本书记》里面出现的。但是这是读「じんどう」的,「しんとう」这个读法是在江户末期才有的。
神道,从教义来说是既没有过去的思想也没有未来的思想,只是活在现在,以前,日本人没有死这种思想,既然出生在这个世上那么就要永久的活下去,没有灵魂,也没有来世。
那么,在此,作为新型宗教发展的神道教和日本的国民的关系到底是怎么样的呢。
即使是说“朕是侍奉佛,法,僧三宝的人。”的天皇时代的时候,天皇得到作为天赐的皇位,而受到日本大多数国民的尊敬。不管时代是怎样的变换,日本国民对于天照大神的敬意和对其的象征太阳,都包含着特别亲切的感觉。
那么接着后来的神社神道是根据明治四年一八七一年五月十四日所颁布的太政官令一直受到国家的保护,直到现在。这个太政官令是以“神社的礼仪就是国家的祭祀”为首来叙述的。
作为日本人,信仰佛教要参拜释迦摩尼,信仰基督教就不应该参拜耶稣基督。在日本,因为存在着日本的神社,所以能够将参拜这件事情用“国家的祭祀”这五个字以巧妙的方法表现出来。
并且在这个太政官令实施的同时,还颁布了将伊势的皇大神宫作为宗祠,其他的众多神社作为它的支社,将神社神道作为国教的意志。
但是,在当时的情势下,对外,将神社作为国教是一件不能发表的事情,对内,如果将国教作为唯一的宗教将会引来佛教各派的强烈反抗。最终,作为不能命名的国教,各教和这个不能命名国教的神社神道一起,存在了下来。
但是,这个神社的思想,从江户时代开始作为神社神道,渲染上了宗教性的色彩。以“日”为中心的崇拜太阳的民俗信仰,从综合考虑的话,就是带了至此带了宗教色彩。在太政官令方面,它已经不被称为是宗教,而是在国家保护之下,被授予了宗教上的治外法权。
然而,在这个在治外法权突然之间被撤去的情况下,神社神道将来的发展可以说将不得不在一种新的体系下,作为一种新的宗教,面对着很大的问题前进。
在日本已经有了各自的宗教。在各自的家里有着佛坛的同时,也可能有神龛,也有着相信上帝之子耶稣基督的基督教徒。天之御中主神、国常立尊、大国主命等的作为祭祀的神,虽然步调上并不一致,但是在神道这个名字上,它们都是相同的。
但是,在传统中以新生作为目标的神社神道应该前进的道路因为佛教,基督教,还有宗教神道,可以说是被堵塞住了。在这种情况下,神社神道,作为兴起的一派,它所作的努力可以说是不同凡响而且难道的。
神社神道应该将至今为止的惯例完全舍弃,在新生的道路上持续前进。目前为止神社作为宗教,关于应该做什么样的事情在这一方面,当然有着各种各样的意见。
最大的一个问题是,作为一个宗教,它所供奉的神不是一致的这一点。
虽然在日本最先出现的神是天之御中主神,但是至今为止没有供奉这个神的神社。在宗教神道有扶桑教,实行教,神道修成教等等,都是将天之御中主神作为祭祀的神的。
但是,新的神社神道应该将天之御中主神作为主要的祭神,成为一个宗派。
在至今为止的国家神道中,将天照大神即太阳这个思想过分的夸大曲解了。
应此,作为宗教的神社神道将天照大神作为神道的本尊这件事情是有很大的损害的。
其次,另外一个难点是,在至今为止的日本神社中,所祭祀的神都是不明确的这一点。
另外,新的神社神道作为一个宗教,必须要抱有能充分忍耐至今其他宗教所经受过的痛苦的决心。
天皇,被称为主宰天之所在高天原的女神天照大神的子孙,他受到神谕,作为天孙降到地上,他的子孙将会代代统治日本。神道教是从祭祀天神的古代神道发展而来的。被称为神的子孙的天皇在作为政治上的统治者的同时也作为国家做高的祭司进行祭祀活动。明治二二年,皇室典范和大日本帝国宪法被制定出来,确立了近代天皇制国家,天皇在被视为政治上的主权者,军事上的统帅者的同时,还是国教神道最高的祭司,被看作是神圣不可侵犯的人神。
昭和二十一年以前的日本,国家神道或者说是神社神道,这个可以说就好象是日本的国教。
除此以外还有黑住教,大社教,金光教,天理教等的是三个教派。这个虽然被称为宗教神道或者说是被称为教派神道,但是现在,国家神道,神社神道的名字已经被撤去,和这些宗教神道,教派神道一起,不得不作为一个派系出发。
日本全国十一万个神社,从伊势的皇大神宫开始到小村庄的各个神社,全部作为同等地位的神社被允许存在。宫,国币社,省,县,乡,村社的资格这些全部奉还,大家都是拥有同等地位的神社。神宫,神职,宫司,祢宜的职位名称变成了宫司,祢宜两种,从皇大神宫到村庄神社所有主持神社祭礼的人都被称为宫司。其下侍奉的人都被称为祢宜。
从此,神社神道作为一个宗教派别,虽然从事这侍奉神道的职责,但是通过这次大变革,日本国民对于以后的神社将会有怎样的态度呢。这作为一个战后应该被关注的问题,逐步发展着。
明治维新以后,实行废佛弃教政策,从全国将佛教清除的国家神道,在战后作为一个宗教派别被允许存在。被夺走了所有的特权,离开了国家的保护,国家神道为什么会实行这种大改革呢,关于这一点,我们必须好好考虑。
原文:神道と日本国民と
神道という文字は、「日本書記」のうちに、あらわれている。しかし、これは「じんどう」と読んだのであって、「しんとう」とは、江戸末期からの読みかただ。
神道には、その教義というものに、過去の思想なく、また、未来の思想もない。ただ、現在のみだから、元来、日本人には、死という思想はない、この世に生まれた以上、永久にこの地上にいるのであって、霊魂とか、来世とかいうものはないのだ。
さて、ここに、新たに宗教として出発した神道と、日本国民との関係は、いったい、どうなるのだろうか。
「朕は、三宝の奴子なり。」と言われた天皇時代でも、その天皇を、天つの日嗣として、尊んできた多くの日本国民は、どのような時代の変遷に出会っても、天照大神に対する敬意と、その象徴としての太陽に、特別の親しみをもつのだ。
さて、在来の神社神道は、明治四年五月十四日に達示された太政官令によって、国家の保護を受けつつ、現在に至ったののだが、この太政官令のはじめに「神社の儀は、国家の宗祀なり。」と、のべられている。
これは、日本人たる者は、仏教を信じて、釈迦を礼拝し、キリスト教を信じて、イエス•キリストを礼拝すべきだはない。日本には、日本の神社があるのだから、これを礼拝すべきであるということを「国家の宗祀」という五字で、巧みに表現したということができよう。
なお、この太政官令とともに、伊勢の皇大神宮を宗社とし、他の多くの神社を、その支社として、神社神道を国教としようとする意志があったように、いわれている。
しかし、当時の情勢では、外に対しては、神社を国教とする発表のできない事情があり、内に対しては、ほとんど国教にひとしい仏教各派の強い攻勢もあって、ついに名乗らざる国教、宗教と名乗らざる神社神道が、存在するに至ったのである。
しかし、その神社の思想は、江戸時代になってから、神社神道として、宗教的に色づけられ、「日」を中心とする太陽崇拝の民俗信仰と、合わせ考えられて、ここに国教的色彩を帯びるに至り、太政官令においては、宗教にあらずといって、国家保護のもとにおき、宗教上の治外法権を与えたのだ。
しかも、その治外法権が、にわかに撤去されて神社神道の将来の発達は、新たなる体系のもとに、新たなる宗教としての、大きな課題に向かって、進めていかなければならないものがあると、言えよう。
日本には、すでに各自の宗教がある。家いえには、仏壇とともに、神だながあり、キリストのみを神の子と信じるキリスト教徒があり、天之御中主神、国常立尊、大国主命などを、祭神として、歩調をひとつにはしていないが、神道という名においては、ひとつなのだ。
しかし、伝統のうちに新生をめざす、神社神道が、進み行くべき道は、仏教、キリスト教、そして、宗教神道のために、ふさがれているような形とも言えるであろうし、そうしたなかにあって、なお、神社神道が、一派を興こそうとして、努力することには、なみなみならぬ苦心のいることは、言うをまたないだろう。
神社神道は、まったくこれまでのしきたりを捨てて、新生への道を歩みつつあるわけだが、これからの神社が、宗教として、どのようにしていくべきかについては、もちろん、いろいろな意見があろう。
もっとも多きなものは、宗教として、その祭神が一致していないことだ。
日本のはじめにあらわれていくる神は、天之御中主神であるが、これまでの神社ではこれを祭っていない。宗派神道では、扶桑教、実行教、禊教、神道修成派等のごときは、天之御中主神を祭神としている。
しかし、新しき神 社神道は、天之御中主神を主祭神として、一宗派をなすべきであろうか。
これまでの国家神道においては、天照大神則太陽の思想を、あまりにも誇大妄想的にゆがめた。
こうしたことからして、宗教としての神社神道は、天照大神を本尊とすることには、大いなる障害がある。
それから、もうひとつの難点は、これまでの日本の神社のうちには、祭神が明らかでないものがあったことだ。
また、新しき神社神道は、これから、宗教として、これまでの他の宗教がなめてきた困難に、じゅぶん耐えうるところの決心を、持たなければならないだろう。
天皇は、天に在る高天原を主宰する女神天照大神の子孫とされ、その神勅を受けて、天孫二二ギノミコトがナカツク二に降り、その子孫が代々ナカツク二を統治するとしていた。神道教は、天つ神と国つ神を祀る古代神道に発展している。神の子孫とされる天皇は、政治の支配者であるとともに、国の祭りを行なう最高の祭司だった。明治二二年、皇室典範と大日本本帝国憲法が制定され、近代天皇制国家が確立で、天皇は政治上の主権者、軍事上の統帥権者であるとともに、国家神道の最高祭司をつとめる神聖不可侵の現人神とされていた。
昭和二十一年以前の日本には、国家神道、もしくは、神社神道というものがあり、それは、さながら、日本の国教だった。
そのほかに、黒住教、大社教、金光教、天理教などの十三派があり、これを、宗派神道、あるいは、教派神道と呼んでいたが、現在においては、国家神道、神社神道の名は、撒去され、これらの宗派神道、教派神道と同じく、一宗派として、出発しなければならなくなった。
日本全国十一万の神社は、伊勢の皇大神宮から、一寒村の無各社に至るまで、すべて平等の一神社として、存在を許され、宮、国幣社、府、県、郷、村社の資格は、これをことごとく返上して、みな同等一様の社格となり、神宮、神職、宮司、禰宜というような職名は、宮司、禰宜の二種となり、皇大神宮から村社に至るまで、神社の祭礼をつかさどる者を、一様に宮司と呼び、その下において、神事に携わる者を禰宜とよぶようになった。
このようにして、神社はここに、一宗教として、神道の伝道に従事することになったのだが、この大変革に際して、日本国民は、在来の神社に対し、いかなる態度をとるべきかが、注目すべき一大問題として、戦後の歩みをつづけてきている。
明治維新後、廃仏棄釈を実行しようとして、日本全国から、仏教を一掃しようと企てた国家神道が、戦後、一宗教としての存在のみを許され、すべての特権を奪われて、国家の保護から、離れたのだが、どうして、国家神道が、このような大変革を見たかについては、そのよるところを考えなければならない。