从素斋看关东和关西[日语外文翻译]精進物から見た関西と関東
编 辑:日语论文网发布时间:2017-11-28

译文:从素斋看关东和关西

与蔬菜想关的素斋过去也是关西更为出色。

新鲜的面筋是优质小麦粉里加入少许盐卤,和匀,放置片刻过水后做出来的。洗去淀粉后便是新鲜的面筋,因为它是从小麦粉里提取出的谷蛋白,所以味道应该不错。它作为阪京一带人们喜欢的食物同千张并称为来自近畿的美味。过去有大德寺面筋和东寺面筋。只要简单地用干制鲣鱼或海带的汤汁过一下就很好吃。

豆腐也是过去留学僧从中国学习传入日本的,过去的豆腐有棉豆腐和嫩豆腐两种口感。

过去在江户那一带人们把豆腐叫做“水贝”。冬天有凉拌豆腐,夏天有豆腐火锅。所谓奴就是指豆腐,早晨的大酱汤就是豆腐汤。

过去油豆腐在关西被称为“ひろうす”,在关东则被称为“がんもどき”,“飛竜頭”(ひろうす)据说是波兰语过来的。“揚げ”在大阪方言里被称为“オアゲ”,大阪方言往往在词的前面加上一个“御”字,比如“オダイ”(大根)、オセン(煎餅)之类的。

京都比较响当当的有因衹園豆腐出名的田乐烧烤。这种烧烤把食物用带有两根叉枝的竹签架着。《京都四季》里记载的二轩茶屋的田乐烧烤就很有名,之后元禄期,中村屋、藤屋都有提供田乐烧烤,在大阪,生玉神社、高津神社社内也有田乐烧烤的门店,在江户一带,汤岛天神的田乐烧烤相当有名。 田乐烧烤以烤豆腐为主材料。

很早以前,在奈良的春日祭上出现了带着跟形状类似高跷,带有立脚点的棍子的法师。他们把两脚放在立脚点上,两手抓住棍子的上端,跟着名叫“鹭脚”的插秧歌的节奏蹦跳着进行法式。有传言说因为抓着一根棍子蹦跳着的田乐法师的样子很像插在竹杆子上的豆腐,所以就出现了田乐豆腐一说。最初的田乐豆腐,是将薄豆腐切成块,用味曾煮,然后撒上炒面粉做出来的。近畿一带的田乐豆腐使用两根竹签,而江户一带只用一根。炒面粉用的是江户的炒麦粉。后来人们把田乐豆腐蘸着山椒味曾(由磨碎了的嫩山椒芽作成)食用,慢慢地演变成了赏花时的下酒菜。这里的味曾蘸酱在关西和关东也是有所不同,关西用的是白味曾,关东用的黄味曾。而山椒嫩芽的加入方法也不同,在关西,是将山椒嫩芽边磨碎边倒入味曾中,而关东则仅仅只是将磨碎的山椒嫩芽放在味曾上。

后来人们把田乐豆腐对着茶饭一起吃,过去在江户,浅草雷门就有专门店开出来。后来,田乐烧烤不仅局限于豆腐,还用上了茄子、魔芋之类的食材。在江户,真崎稻荷就是以田乐烧烤而闻名天下,甲子屋、川口屋、玉屋、稻屋、仙石屋都是田乐烧烤的专门店,其中甲子屋最常见。

冻豆腐直到江户中旬为止还是被人们称为“氷豆腐”或者“凝り豆腐”。比如说,在庆安三年的《贞德文集》里有“氷豆腐”一词,元禄十年的《日汉素斋菜肴抄》里有“凝り豆腐”一词。江户初期开始,被称为冻豆腐的高野豆腐首次被列为豆腐百珍,到了江户末期,已是大阪干货市场的常规贩卖品。以高野山为首,在葛城峠、野迫川・大阪的千早、石見山都可以看到冻豆腐的踪影,甚至在四国,播州,九州的雲仙、信州、甲州,飛騨,東北都有做冻豆腐。

挂面也是关西的产物吧。奈良的三轮,兵库的揖保川附近是日本挂面的起源地。留学僧将有年糕演变而来的面食从中国传入到日本。关西风的蘸面条的佐料汁是干制鲣鱼同海带煮出来的汤汁用淡酱油调味做出来的。在大阪,人们将葫芦干称为木津,是因为葫芦干是在难波木津、天王寺边界那一带制作的而由来的。

另外,在关西,吉野葛粉是点心菜肴里必不可少的一样素材。冻粉也是如此,以摄津的能势为中心,盛产冻粉。

蔬菜的一大优势是它是素斋的主材料。因此,近畿特别是京都被称为素斋的起源地。京都的大德寺在其寺院门口经营的饭馆,还保留着古式素斋料理。古时候留学中国大陆的留学僧将素斋料理引入日本,并以寺庙为中心发展光大,之后,豆腐、味曾、酱油、千张等纷纷传入日本,以近畿一带为中心,发展普及开来。

大阪天王寺区逢阪下的广田家,原先也是经营素斋料理的,最开始经营作为阿部野的丧事料理的油炸蔬菜。以油炸豆腐、魔芋、胡萝卜、香菇熬出来的高汤和鸡蛋豆腐、金平牛蒡、豆子饭作为商品。其中豆子饭是采用寺庙风味的加入了黑豆的糯米饭,现在的话都是采用黄豆了。在阿部野还有其门店。

奈良的东大寺里还有称为“结解”的菜,它是人们解决了一件事后,聚集起来一起吃的一道菜。

禅宗里讲到:荤酒不许入山门。所谓荤,指大蒜、韭菜、葱、薤之类的有气味而被嫌弃的药膳五味。于是,素斋就精选些口味清淡的爽口的蔬菜并加以加工处理。后来在长崎,由中国风味和荷兰风味折衷而来的精素斋菜出现并得以发展。而且,还流传到了近畿一带。《嬉游笑览里有记载:京都衹園的下河原有个名叫佐野屋嘉兵衛的人,他从长崎出发上京,第一次将大椀十二的精素斋菜弘扬传播。精素斋菜开始出现在京师、难波一带的餐桌上,在大阪它也作为一道家常菜广泛流传,但是没有像御堂筋的贵得斋那样能够持续这么长时间的。在江户也到处都是精素斋菜料理,像民间的普通老百姓百川(百川茂左卫门)之类的人也开始会做这类的家常小菜。“シッポク”是“卓袱”的汉音,过去意为桌布,后来转意为餐桌,再进一步,后来人们把放在这上面的菜肴称为“卓袱料理”。>


原文:精進物から見た関西と関東

野菜に連なる精進物も関西が良かった。

生麩は良質の小麦粉にニガリを若干加えて、こねてしばらくしてから水でさらしたものだ。澱粉を洗い落として残ったものが生麩で、小麦粉からグルテンを取り出したものだからうまいはずだ。京大阪の人士の好物で「生湯葉」とともに上方伝来の味覚だ。大徳寺麸-東寺麸があった。麸は鰹節-昆布の煮出しでサラリと炊いただけでうまい。

豆腐も支那から昔、留学僧がもたらしたものだが、以前は木棉豆腐-絹こし豆腐があって風味があった。

江戸では豆腐を「水貝」といった。夏の冷奴、冬の湯豆腐がよろこばれた。奴とは豆腐のことで、朝のオミオツケは煮奴である。

関西の「ひろやす」を、関東では「がんもどき」といった。飛竜頭(ひろうす)で、ボルトガル語に由来するそうだ。「揚げ」も大阪ではオアゲと言うが、大阪弁には御の字をつけることが多い。オダイ(大根)、オセン(煎餅)の類である。

京名物に祇園豆腐で知られた田楽があった。それは二本の股のある串に刺されていた。「京の四季」にある二軒茶屋という茶屋の名物となり、のち元禄期には中村屋-藤屋にて供され、大阪でも生玉-高津神社の境内にその店が出、江戸では湯島天神のものが著名であった。田楽焼きは焼き豆腐を用いる。

昔奈良の春日祭に一本の棒に足掛かりを作り、竹馬のようにしたものを持った法師があらわれて、その足掛りに両足を載せ,両手で棒の上を握りながら,鷺足と名付ける田楽の曲に合わせて、ピョンピョン跳ね回る行事があった。一本棒を握って跳ね回る田楽法師の格好が,串にさした豆腐の形によく似ているところから、田楽法師のような豆腐で、田楽豆腐というに至ったと伝える。もとは田楽豆腐は薄く豆腐を切って,味噌のたまりでこれを煮き、その上にはったい粉を振りかけた。上方は串お二本、江戸は一本串を用いていた。はったい粉は江戸の麦こがし粉である。のち山椒の若芽をすりつぶした味噌をつけるようになり、花見酒のさかなになった。田楽豆腐に付ける味噌も、上方では白味噌、江戸では赤味噌である。山椒の若芽も上方では味噌の中へすりつぶして入れ、江戸では味噌の中へ入れずに、その上におくという具合であった。

田楽豆腐と茶飯とは出合いになり、江戸でも浅く雷門に店ができたということだ。後田楽は豆腐に限らず、茄子にも「コンニャク」にもつけるようになってでしまった。江戸では真崎稲荷がその名所で、甲子屋-若竹屋-川口屋-玉屋-いね屋-仙石屋が田楽茶屋であり、甲子屋がもっともあらわれた。

凍豆腐は江戸の中頃までは「氷豆腐」または「凝り豆腐」といわれていた。例えば慶安三年の「貞徳文集」には「氷豆腐」とあり元禄十年の「和漢精進料理抄」には「こごりだうふ」とある。そののち東日本ではこれを「しみ豆腐」といい、西日本では「高野豆腐」といった。江戸初期から「しみ豆腐」といい、「高野豆腐」は「豆腐百珍」にあるのがはじめ、江戸末期には大阪乾物市場の取扱商品になった。高野山をはじめ、葛城峠-野迫川、大阪の千早-石見山にみられ、四国-播州,九州の雲仙,信州-飛騨-東北でもつくられた。

素麺も関西のものだろう。奈良の三輪-兵庫の揖保川付近の素麺が本場である。中国の餅から麺に発達したものを、留学僧がつたえた。カツオ節と昆布で煮出し汁を作り,薄口醤油で加減するのが関西風のつけ汁である。大阪で干瓢のことを木津というが、これは難波木津,天王寺限界で干瓢をつくったからである。

それから吉野葛も関西の菓子や料理にはつきものになる。寒天にしてもそうだ。摂津の能勢を中心とした寒天の産出を思う。

野菜のよいことが精進物-精進料理のもとになる。だから上方ことに京都が精進料理の本場ということになる。京都の大徳寺専属の門前の仕出屋一久は、古式の精進料理をまもっている。古く中国大陸に留学した僧によって精進の食べ物がもたらされ、寺院を中心に発達した。豆腐も味噌も醤油ももたらされ、また湯葉を伝えた。そして上方を中心に発達した。 

大阪天王寺区逢阪下野広田家も、元来は精進料理から来ている。もとは阿部野の野辺のおくりの精進あげであった。揚げ-こんにゃく-にんじん-しいたけのはいった葛仕立ての吸物(さつま汁)と、卵豆腐-きんぴらごぼうなどに、豆ご飯が売りものである。豆ご飯の由来は、黒豆を入れてたくお寺風の「おこわ」に由来するが、いまは黄色い大豆をいれている。阿部野にもみせがある。

奈良の東大寺に結解がある。ものごとがすんだときに、集まりに食う料理だ。

禅家では「葷酒山門に入るを許さず」とあるが、葷はニンニク-ニラ-ネギ-ラッキョウなどの異臭のある薬味類を五辛といって嫌悪した。そして淡白ば、あっさりしたものに精選されて発達した。のち中国風と蘭風とを折衷したシッポク料理が長崎で発達した。そして上方にもつたわった。「嬉遊笑覧」には「京都祇園の下河原に佐野屋嘉兵衛べといふ者、享保年中長崎より上京して初めて大椀十二のシッポクを弘めける。これ京師-難波にて食卓の始めとかや、大阪にてかれこれ食卓料理あまた弘めたれど、お堂筋の貴得斎ほど長く続きたるはなし、江戸にては処々ありしなるべけれど行われず、浮世小路の百川(百川茂左衛門)なども初め食卓料理したるなり」とある。シッポクは「卓袱」の唐音、卓の被い(テーブル-クロス)の意で、転じて卓そのものになり、それにのせて供する料理を卓袱料理といった。

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