译文:日本的茶道与禅文化
茶,最初是在奈良时代由遣唐使传入日本的。之后曾一度衰落,镰仓时代再度兴起。室町时代,在足利义政将军的支持下,村田珠光率先在“四叠半”的小房间里,以“佗茶”的方式品茗,提高了茶的艺术性,形成茶道。茶道之集大成者是安土桃山时代的千力休。利休原本受丰臣秀吉的庇护,但后来与他对立,1591年在秀吉的命令下切腹自杀。之后由其子孙继承茶道,产生了表千里、里千里、武者小路千家,即所谓的三千家。就流派而言,以三千家为中心,衍生出籔千家、远州流、宗偏流等众多流派,并延续至今。其中组织淡交会的里千家,二战后抢先进军海外,对茶道的国际化做出了极大贡献。
虽然也有在庭院或者寺院神社在院内设置临时席位而进行的“野外茶会”,但茶室在茶道中仍是不可缺少的,也只有在茶室狭小的空间里面方能成就茶道文化。日本人把沏茶称为“点前”,其次序是先于茶碗中放入茶粉,注入锅中沸水,然后用茶刷搅拌使之起泡。饮用方法是用右手拿起茶碗,再以左手手掌托住碗底,而后将茶碗朝向自己的方向转动,饮完后用手指抹拭,再取怀纸(怀中的纸)擦拭手指。然而,茶道并非单纯饮茶,对茶杯、茶具、茶室摆设、露地(茶庭)等的鉴赏,以及主客之间的情感交流,才是茶道的基本精神所在。千利休的茶道素养可归纳为“四规七则”。所谓的“四规”是指“和静清寂”,“和静”是茶会上面主客之间的礼节,“清寂”专指茶室、茶庭清静闲寂的气氛。“七则”是指接待他人的要则:沏出来的茶要顺口好吃;适时添加木炭使热水维持沸腾;沏出来的茶宜冬暖而夏凉;花朵的运用宜自然不造作;在一定的时间内尽快完成;即使没有下雨亦准备雨具,殷勤待客,此乃“七诀”。
自古以来,坐禅即为佛教悟道的方法之一,源于中国的禅宗,为彻底实行坐禅,禅者便将日常生活的一切视为坐禅。12世纪末期,荣西将临济宗引进日本。镰仓时代初期,道元将曹洞宗引进日本。临济宗是在坐禅的同时,一面思索师父逐次提出的所谓“公案”问题,并在解决问题的过程中开悟。例如以公案中的“单手之声”为例,师父提出问题“拍打双手会发出声音,只用单手会发出声音吗”?通过这种方式让修行的弟子反复进行哲学性的思考,这主要受到贵族或上层武士的支持。京都的大德寺、南禅寺、镰仓的建长寺、圆觉寺皆属该派。曹洞宗的特征如道元所言,是“只管打坐”。也就是单凭坐禅就能达到开悟的目的。厌恶权利和虚荣的道元在福井县的山中创建永平寺,主张任何人皆可开悟,并鼓励下级武士与一般民众坐禅。江户时代初期从中国东渡日本人的僧人隐元创立了新的宗派—黄諀派,其特征是无论经文,动作或装饰均保持中国风格。
禅对日本文化造成的影响极大。尤其是在室町时代,日本与中国的交流极盛。作为先导的临济宗僧侣们将中国文化介绍给了贵族以及上层贵族武士。在文学方面,以禅僧为中心的汉学成为“五山文学”。所谓的“五山文学”是指地位最高的5座禅寺。在绘画方面,水墨画从中国传入的同时,雪舟等诸多禅僧也开始着手画山水画和被称为“顶相”的僧侣肖像画。在庭院方面,出现了依循禅的精神建造而成的毫无修饰的石庭或枯山水庭院。在茶道方面,荣西将抹茶的饮茶方式传入日本,在安土桃山时代,以千利休为主的众多茶道师开始学禅,从禅的精神中创造出“佗茶”。
现今禅宗的信徒约有327万人(1996年底),虽只占佛教信徒的5.3%,但在全国75000座的佛教寺院中,禅宗系就占了21000座,尤其是鲁洞宗约占了14700座,占全部寺院的2成。。这些禅宗寺院会定期举行一般信徒也可参加的参禅会。铃木大拙积极的向海外宣传禅宗教义,曹洞宗的弟子丸泰仙叶致力于向欧洲传教。
原文:日本的茶道与禅文化
日本に初めて渡来したのは、奈良時代、遣唐使たちによってである。一時廃れたが、鎌倉時代には再び広まり、室町時代,将軍足利義の下出、村田珠光が四畳半の侘茶方式をはじめるに及び、茶は芸術性を高め、茶道戸なった。そしてこれを大成したのが、安土桃山時代の千利休。利休は豊臣秀吉の庇護を受けたがやがて対立、1591年、秀吉の命によっり切腹した。茶道は子孫に受け継がれ、表千家、裏千家、武家小路千家の、いわゆる三千家を生んだ。流派としてはこの三千家を中心に、藪内家、遠州流,宗偏流など多くの流派を生み、今日にいたっている。中でも淡交会を組織する裏千家は、戦後いち早く海外へ進出し、茶道の国際化に大きな役割を果たした。
庭園や寺社の境内などに臨時の席を設けて行う野点の形式もあるが、茶道に茶室は欠かせない。そしてこの茶室という狭い空間こそが茶文化を育んだ。茶をたてることは手前といい、その手順は、茶碗に抹茶を入れて釜の湯を、茶筅でかき回し泡立てる。読み方は右手で茶碗を取り、左の手の平に載せ、茶碗を向こうから手前に回す.飲んだ後は指先でぬぐい、指は懐紙(懐中の紙)で吹く。しかし、茶道とは単に茶を飲むのでわな区、茶碗をはじめとする茶道具、茶室の調度、露天(茶庭)などの鑑賞、そして主人と客の交流にこそ本質がある。
千利休は茶の湯の心得を四規七則と説いた。四規とは和敬清寂で、和敬は茶会での亭主と客相互の心得。清寂の清らかで閑寂な雰囲気を言う。七則は他人に接するときの心構えで、茶は服(飲み加減)のよきように点て、炭は湯の沸くように置き、冬は暖かく夏は涼しく、花は野にあるように入れ、刻限派早めに、降らずとも雨具の用意,相客に心せよ、の七つが秘事という。
仏教では悟りを得る方法のひとつとして古くから座禅を行ってきたが、中国に起こった禅宗に徹することを要求し、日常生活すべてを座禅の修行の一環であるとしている。
日本には12世紀末に栄西によって臨剤修が、鎌倉時代初めに道元によって曹洞宗がもたらされた。臨剤宗は座禅をしながら、師匠は次々に出される公案と呼ぶ問題を考え、それを解決する事によって悟りを開こうという派。公案の一例に隻手の音声がある。両手を打てば音がするが、片手だけではどんな音がするかと問うて、哲学的な考察を重ねさせる。主に貴族や上級武士2支持された。京都の大徳寺,南禅寺、鎌倉の建長寺、円覚寺などがこの派に属する。曹洞宗の特徴は道元が言っているように只管打座である。つまり、ひたすら座禅をする事によって悟りを開こうとするもの。権力と虚栄を嫌った道元は福井県野山中に永平寺を開いた、誰でもが悟りを開けるのだと、下級武士や一般の人々に座禅を勧めた。
江戸時代初期には、中国から來朝した隠元によって黄檗宗が開かれた。経文や動作、飾りなどすべて中国風そのままであることを特徴とした。
禅が日本文化に与える影響は大きい。特に室町時代、中国との交流が盛んで、その先端にたった臨剤宗の僧侶が貴族や上級武士の間に中国文化を紹介した。文学では、禅僧を中心二した漢文化が五山文化の名で呼ばれた。五山徒は、もっとも格式の高い五つの禅寺のことである。絵画では水墨画が中国からもたらされると同時に、雪舟ら多くの禅僧が山水画や頂相と呼ばれる僧侶に肖像画を描いている。また庭園では禅の精神にのっとった飾り気のない石庭,枯山水の庭などが作られた。さらに茶も,栄西により抹茶による喫茶法がつたえられ、安土桃山時代には千利休を初めとする多数の茶の宗匠が禅を学び、その精神を生かしたわびちゃを生み出した。
現在、禅宗の信徒は約327万人(1996年末)で、仏教の5.3%であるが、仏教寺院約7万5000のうち2万1000が禅宗系で、特に曹洞宗は約1万4700と.全寺院の2割を占めいている。これらの寺院では一般信徒を含めた参禅会などを開いている。海外へは鈴木大拙が積極的に紹介し、曹洞宗では弟子丸泰仙がヨロッパへの布教に力をいれた。