日语翻译:是「水が飲みたい」还是「水を飲みたい」呢?
编 辑:日语论文网发布时间:2017-11-28

译文:是「水が飲みたい」还是「水を飲みたい」呢

例如:下雨天,想不撑伞在马路上走走,但是怎么也不允许这样。鼻尖上有只蚊子,想对它放任不管,可是一般是行不通的。(寺田寅彦《田园杂感》)

一遇到像“放任不管”这样的措辞和句子,“我对蚊子放任不管”这句话中谓语的地位就会显得比较突出。整句话中“たい”就成了一种伴随语。标题「水が飲みたい」,如果换成「飲んでおきたい」,那么应该说成「今のうちにうんと水を飲んでおきたい」比较自然吧。「本が読みたい」这句话也是如此。  

「今日中に、借りた本を読んでしまいたい」「この本を終わりまで読みたい」「人生の決定的な出逢いとなるような、生涯心に残る名作をぜひ感受性の鋭い心の柔らかい年代に読んでおきたい」

这些句子中的「が」都已换成「を」。「……を……たい」这一句型起初是用在「私は……を……する∕したい」这样的判断句中。是表达主语「私」对对象语采取的一些动作,或者表达想做些什么。所以毫无疑问让人想到说话者的表达意图在于谓语部分「何する∕何したい」。对于问句“生涯心に残る名作をどうしたいのか”,可以回答成“我々は心の柔らかい年代に読んでおきたいのだ”。 「何は何だ」这样的结构是典型地表现从课题到解答的一种典型的判断句。“何したい”的谓语部分,正因为是对某个课题的解答,更倾向于变成具体的内容。「あなたにお勧めしたい」「教科書として採用したい」「ブックカバーに利用したい」这些句子用句型「……を……たい」,显得更加自然。

这样的话就成了下面的句子:「これをあなたにお勧めしたい」「これを教科書として採用したい」「この紙をブックカバーに利用したい」

对于 “私はこれをどうしたいのか”这个问题,会想到用「……お勧めしたい」「……採用したい」「……利用したい」来回答。正因为有具体的事物在,能够说成「……これをお勧めしたい」或者「採用したい」。什么也没有,可以含糊地说成「何かお勧めしたいな」或者「何か採用したいが……」,这种行为欲求先行的做法通常是行不通的。已经决定所采用的内容,想把它传达给别人的话,

可以这么表达:「私はこれが採用したいのです」「これがあなたにお勧めしたい品です」「僕はそれでもあれでもなく、これが利用したいのです」

“不是其他的任何东西,而是这个”这种强调排他的意思用「が」来表示。「水が飲みたい」这一句,有喝的欲望,作为那种欲望的对象,指定不是茶也不是咖啡,而是水。也就是说「……したい」先提出有这种行为的欲望,至于欲望的对象是什么,用「……が」这样的句型来表达。把判断句「私の飲みたいのは水です」倒置一下的话,就成了强调句「私は水が飲みたい」,体现出一种“主题―(解答―课题)”的关系。“私は何が飲みたいか?お茶でもコーヒ―でもなく、水が飲みたい”中的「……が」体现了真正的目的。那也是为什么「……が……たい」这一句型往往采用强调句形式的原因。即采用:「……が……たいのだ∕……たいんです」。

但是,还不能决定具体的事物之前,想做什么,想变成某种状态要么是一种本能的欲望,抑或是欲望达不到满足而产生的一种渴望和需求,抑或为某件事情的结局,自然而然想那样做,不外乎这几种情况,喉咙干渴,觉到想喝点什么,直到水这种具体的对象在头脑中出现。对象不确定,总之就是想除掉些什么东西,这种想法是不成立的。因而导致不能说出「ハエが殺したい」这样的话。只有当一只苍蝇就在眼前的时候,才会产生除了它的欲望,因为有很多苍蝇存在,便会说出「どのハエが殺したいのか∕あのハエが殺したいのだ」这样的话。说话者想要叙述的部分就是划线的部分。因此,不难发现其实能很自然地使用「……が……たい」这一句型的动词是非常有限的。


原文:「水が飲みたい」か「水を飲みたい」か

たとえば、雨の降る日に傘をささないで往来を歩きたいと思ったとしても、なかなかそうはさせてくれない。鼻の先にとまった蚊をそっとしておきたいと思っても、それは一通りの申し訳では許されない。(寺田寅彦『田園雑感』)

「そっとしておく」のような言い回しや句になると、「私は蚊をそっとしておく」という一つの文の述語としての意識が強まり、その文全体に「たい」が伴うという文構造となる。標題の「水が飲みたい」も、もし「飲んでおきたい」であったなら、「今のうちにうんと水を飲んでおきたい」となるのが自然であろう。「本が読みたい」も   「今日中に、借りた本を読んでしまいたい」「この本を終わりまで読みたい」「人生の決定的な出逢いとなるような、生涯心に残る名作をぜひ感受性の鋭い心の柔らかい年代に読んでおきたい」

と「を」となる。「……を……たい」は、もともと「私は……を……する∕したい」という判断の文であって、主語「私」が、その対象に対して何をするのか、何をしたいのか述べる文である。したがって、話し手の表現意図は「何する∕何したい」の述語部分にあることは言うまでもない。“生涯心に残る名作をどうしたいのか”の設問に対して“我々は心の柔らかい年代に読んでおきたいのだ”と解答する。「何は何だ」の構文で「課題―解答」をおこなう典型的な判断文である。この“何したい”の述語部分は、課題に対する解答ゆえ、具体的内容となりやすい。「あなたにお勧めしたい」「教科書として採用したい」「ブックカバーに利用したい」は「……を……たい」文型をとるのが自然である。

「これをあなたにお勧めしたい」「これを教科書として採用したい」「この紙をブックカバーに利用したい」

“私はこれをどうしたいのか”に対する解答として「……お勧めしたい」「……採用したい」「……利用したい」と答える発想である。具体的な事物が今、話し手の中にあるからこそ「……これをお勧めしたい」とか「採用したい」と言えるのであって、何もないのにただ漠然と「何かお勧めしたいな」「何か採用したいが……」と行為の欲求が先行することは通常では有り得ない。すでに採用したい内容が決定していて、それを他人に伝える場合なら、

「私はこれが採用したいのです」「これがあなたにお勧めしたい品です」「僕はそれでもあれでもなく、これが利用したいのです」

“ほかの物ではなく、これが”という排他強調の「が」で表現もしよう。「水が飲みたい」文型は、飲みたい欲求がすでにあって、その欲望の向けられる対象として“お茶でもコーヒ―でもなく、水が……”と指定する発想である。つまり「……したい」欲望が先行し、その欲望の対象が何であるかを「……が」で答える。「私の飲みたいのは水です」の判断文を倒置して「私は水が飲みたい」と強調する。“主題―(解答―課題)”の関係である。“私は何が飲みたいか?お茶でもコーヒ―でもなく、水が飲みたい”と「……が」で種明かしする。「……が……たい」文型が往々「……が……たいのだ∕……たいんです」の形を取るのはこのためである。

ところで、具体的な事物が決まらない前から、何かしたい、ある状態になりたいと考えるのは、本能的欲望か、欲求不満から生ずる渇望感か、希求感か、事の成り行きの帰結として自然とそうしたい気分になっていく場合かの、いずれかである。のどが渇くから“何か飲みたい”と感じ、「水が飲みたい」と欲求の具体的な対象が浮かんでくるのである。対象もさだかでないのに“とにかく何か殺してみたい”などと考えることはまず有り得ないから「ハエが殺したい」などと言わないまでである。眼前にハエがとまっているからこそ「あのハエを殺したい」と望み、たくさんハエがいるので、「どのハエが殺したいのか∕あのハエが殺したいのだ」と話す。話し手の述べたい部分は傍線部にあることは、すでに見てきた通りである。このことから、「……が……たい」を自然に取る動詞はかなり限られたものであることがわかろう。

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