译文:
我平静了心气,站在大道边上的四辻站上,等着开向谷中的电车,等了好一会儿,也没看见电车过来。于是我又迈开了步伐,登向上野的山路。不一会儿便穿过了东照宫的院内,走下了山路,我还是打算走着去谷中。我今天特意到这儿来的目的就是为了去谷中。
前几天,我因为某件事情去了趟谷中,在回来的路上,路过了太宰春台墓所在的寺庙。那一带的土地,幸运地并没有遭受到猛火的灾祸,家家户户都保留着原貌。我穿过寺庙的大门,在墓地附近转了转。但不禁激起我扫墓的念头的,并不是去吊唁春台。我是一个经学的门外汉,和太宰家的学风毫无缘分,也不是特别喜欢他们家那被人传颂的人品。让我有所想法的,其实是春台墓的墓碑。在那石头上刻着几行文字,也就是所谓的墓志铭。铭文是服元乔撰写的。服部南郭作为江户诗文的大家,并非和我完全没有缘分。在明和安永天明时期,给江户文苑冠以风雅之美名的是,南郭大师生前在世间流传的潇洒的唐山诗的余韵。那是清新脱俗文学的根基。太宰家的墓碑,现在已经安然无恙,也不缺南郭大师的墓志铭。虽说如此,但是在火灾中被烧毁残留的墓志铭,和在世人忘却中不明踪迹的墓志铭,其实受到的待遇都是一样的。我想趁着现在给这墓志铭留个拓本。于是,我决定为了拓印墓志铭,改日再一次拜访这座寺庙。这改日,也就是今天。此刻,我放下了手中的小包袱。包袱里放着的是拓印用的纸墨和当作便当的两片面包。拓本逸散之时,不也就是流传在那灭亡世代之中的诗文历史的缺失之际吗。穿过这临时寄居的墙壁,将它拓下来岂不是正好。
于是,在我爬上上野的山来到清水堂附近的时候,无意中回头看向了空荡荡的身后——有个破衣烂衫,满头脓包的少年正从两条街开外,向着这边缓缓走来。毫无疑问的,就是刚刚那个少年。我已经放弃了之前在市场耽搁的那事儿,因为要回到拓本那里,所以我对那个少年并没有给予太大的关心。可是,不可思议的是,在这山上的宽敞地儿向那边看去的话,少年的身影已经失去了在市场时那耶稣一般的圣光,他只是像只野兽为了寻找食物而漫无目的地游荡着。就像是圣经中所记载的,那附身在猪身上的恶鬼的后裔,仍然徘徊在山边水畔。我正扫兴,把少年抛诸于脑后,继续向前走去。走到这附近,早就没有什么店家了,就连过路的人也没几个。就算我禀性多么浮躁,看那女人大腿上的肉看得多么入迷,也不会迷路。
原文:
わたしは気をしずめて広小路の四辻に立った。そして、谷中のほうへ行く電車をしばらく待っていたが、どうも来そうなけしきがなかった。わたしはまたあるき出して上野の山にのぽった。これから東照宮の境内を抜けて、山の下の道におりて、谷中まであるいて行こうというつもりである。その谷中に行くということは、わたしがきょうわざわぎここまで出て来た目的であった。
先日、わたしはさる用件で谷中まで行くことがあって、そのかえりみちに、太宰春台の墓のある寺のまえを通りかかった。そのヘん一帯の地はさいわいに猛火の厄をまぬがれていて、家並はおおむね元どおり残っている。わたしは寺の門をくぐって、墓地にまわってみた。しかし、わたしがふと掃苔の念を発したのは、春台を弔うためではない。わたしは経学の門外漢だから、太宰氏の学風とは縁がなく、またその伝えられる人柄も好まない。わたしの目当とするところは春台の墓の石である。その石に刻してある数行の文字、すなわち墓竭銘である。銘文は服元喬の撰に係る。服部南郭ならば江戸詩文の大宗として、わたしとはまんざら縁のないこともない。明和安永天明の間江戸の文苑に風雅が栄えたのは、南郭先生がさきだって世にひろめた瀟洒たる唐山の詩の余韻に負うところすくなしとしない。けだし、しゃれた学問の根柢である。太宰氏の墓石は今につつがなく、南郭の墓竭銘も欠けていない。それでも、これは焼け残ったとはいうものの、世間のひとの忘却の中では存否不明同様の取扱いだろう。わたしは今のうちにこの墓竭銘を拓本にとっておきたいとおもった。そして、改めて、拓本をとるための用意をしてまたこの寺をたずねることにした。その日を改めてというのが、つまりきょうである。げんに、わたしは小さい風呂敷包をさげている。包の中には、拓本用の紙墨とともに弁当用のコペが二きれはいっている。拓本がとれたときには、それは亡びた世の、詩文の歴史の残欠となるだろう。仮寓の壁の破れをつくろうにはちょうどよい。
さて、わたしは上野の山にのぽって清水堂の下あたりまで来たとき、なにげなくうしろをふりむくと、二町ほどあとからボロとデキモノの少年のこちらヘむかってあるいて来るのが見えた。まがう方なく、先刻の少年である。わたしはすでに市場で道草を食うことをやめて、拓本ヘの方向をとりもどしていたので、少年についてはもう大して関心がもてなくなっていた。それに、不思議なことは、この山の上の広い場所で眺めると、少年の姿は市場の中におけるがごときイエスらしい生彩をうしなって、ただ野獣などの食をあさってうろつくよう、聖書に記されている悪鬼が乗り移った豚の裔の、いまだに山のほとり水のふちをさまよっているかのようであった。わたしは興ぎめて、少年をうしろに見捨てたまま、さきにすすんだ。このへんまで来ると、もはやものを売る店もなく、ひと通りもすくないので、わたしがどれほど浮気の性であったにしろ、女の足の肉づきに見とれて道をまちがえる危険はない。