译文:
相对于日本人强调“耻”,中国人更重视“名”。这里的“名”也就是“面子”的意思。在《孟子》的尽心编里留下了这样的警句“好名之人能让千乘之国”。
重视名声的人是指,为了守护自己的名誉,即使让出千辆战车的大国也不觉得可惜。中国自古就重视“名”,为了守护“名”即使付出多少物质上的牺牲也不可惜。中国人惜名与日本人知耻有异曲同工之妙。但在心理方面范围更广,惜名这种情绪也包含知耻的心,在这种意义上中国文化又称为“名”文化。
然而从惜名这一心理派生出来的是中国人独特的“面子”问题。中国人是极端的重视“面子”的民族。“面子”在日语中原指“体面,面目”“重视什么”从中文而来,词典是这样收录的。
举例来说,在中文中“有面子”换句话为“有名誉”“给面子”的意思。“没面子”换句话为“丢脸”“不体面”的意思。在日本无论是黑社会成员还是暴力团体的人用“你把我的面子丢尽了”来恐吓别人,一般并不成为问题。
然而在中国社会,在对人际关系上,这个“面子”问题被放大。这种情况很普遍,为了方便理解,就以就职为例,有势者A把就职希望者C介绍给企业人事关系者B,B在录用C时,实际上采用是因为C的人格能力经验等。即使A的介绍完全没有起到作用,但在中国社会通常会用“B给A的面子”来解释,A也因为很有面子而感到开心。另一方面,好不容易被录取的C,因为犯错而被辞退的时候,会被说成“C丢了A的面子”。对A来说因为“没有面子”而觉得丢脸,这就是中国人一般对面子的思考方式。
综上所述,在日本公司或者组织中,部下犯了重大的失误,他的上司负责辞职的情况很多。而孩子们做出了不知廉耻的行为的时候,父母为此负责从工作单位辞职的情况也有发生,特别是父母是公务员、警察、教师等与公职有关的或是在社会上很有名气的情况下,几乎没有例外都会辞职,这就是“日本的责任承担方式”。
对于这一点而言,重视“名”的中国人,首要的责任是与现实相对应的。在公司和组织内部,部下犯了重大的过失时,因为丢了上级的面子,部下承担责任是无可厚非的,上级没有必要辞职。上级站在这个企业和受害者的立场,即使解雇部下,自己也没有理由辞职。感到羞耻时把自己的过失和责任也转嫁给部下,逃避自己的失败和责任是很可耻的事情。这种责任感往往是即使因上级的过错而造成的责任,也会视为“上级没有责任”。而且,对于这一问题,周围过分注重上级面子,宽容上级的错误并不会深究。
原文:
日本人が「恥」を強調するのに対して、中国人は、「名」を重視する。この場合の「名」とは、 面子のことである。『孟子』の尽心編にこんな警句が残されている。「名を好む人は、能く千乗の国を譲る。〔“好名之人能譲千乗之国”)」 名声を重んじる人間は、自分の名誉を守るためには、たとえ千輛の戦車を出すほどの大国も人に譲って惜しまない、という意味である。このように、中国人は昔から"名”を重んじた。 その「名」を守るためには、物質的な犠牲をいくら払っ
ても惜しくないと覚悟していた。中国人の名を惜しむことは、日本人の恥を知るのと同工異曲(手ぎわは同じであるが、とらえ方·趣が違うこと)であるが、心理的にはもう少し範囲が広い。名を惜しむ気持ちの中には恥を知る心は含まれると思う。この意味では、中国の文化は「名」の文化(恥の文化を含む)と言えよう。
ところで、名を惜しむ心理から派生したものに中国人独特の「面子」の問題がある。中国人は「面子」を極端に重んじる民族である。「面子」はそのまま日本語になっていて、『メンツ【面子】体面。面目。「〜を重んじる」?中国語から。〖『岩波国語辞典』第三版、一九七九年)』と 辞書にも収められている。
例えば、中国語で“有面子”と言えば、「体面がいい」、「顔をたてくくれた」という意味であり、"没有面子”と言えば、「顔がつぶされた」、「みっともない」というほどの意味である。日本でもやくざとか暴力団などは、「てめえ、よくもおれの顔をつぶしてくれたな!」といって凄んだりするが、一般にそれほど問題にしないものである。
ところが、中国人社会では、対人関係のうえで、この"面子”問題がクローズ·アップされる。いろいろなケースがあるが、分かりやすくするために、就職のことを例に例えることにする。有力者Aが企業の人事関係者Bに就職希望者Cを紹介し、BがCを採用した場合、実際の採用理由はCの人格·能力·経歴などにあって、Aがロをきいたことは全然影響しないときでも、中国人の社会では、普通は「BはAに面子を与えた」と解釈する。Aも“有面子”になって喜ぶ。逆にせっかく採用されたCが、何かへマをやって退職させられたときには、「CはAの面子をつぶした」と言われる。Aにとっては、"没有面子”であるから、恥をかいたことになる。 これが、中国人の一般の”面子”に対する考え方である。
既述のように、日本の会社や組織では、部下が重大な失敗をやらかしたときに、その上司が責任を取って辞任するケースが多い。また、子供が破廉耻な犯罪を犯したとき、親がその責めを負って勤務先を辞めることもある。とくに親が公務員、警察官、教師など公職についているとき、あるいは社会的に有名なときには、ほとんど例外なく辞任する。これが日本的な「責任の取り方」である。
これに対して、名を重んじる中国人は、トップの責任というものには、現実的な対応をする。 会社や組織の内では、部下が重大な失敗を犯したときに、その部下がトップの面子をつぶしたわけだから、その部下はツメ腹を切ってもしかたないが、トップが辞める必要は少しもない。トップはその企業と同じく被害者の立場であり、部下の首を切っても自分が首を切られる理由はない。恥を感じるところか、自分の失敗や責任でも、それを部下に転嫁して、自分だけがその失敗や責任から逃れようとする悪ケースさえあるくらいである。この責任感覚は往々にして、 あきらかにトップの責任とみられる失敗に対しても、一種の「トップ無責任」に発展する。また、周囲も、この問題に対しては、トップの面子を重んじる余り、比較的寛大であり、それほど深く追求することはしない。