中国人と日本人の文化的異質性_日语外文翻译
编 辑:日语论文网发布时间:2018-10-17

译文:

1980年之后,随着中日两国的经济文化交流取得巨大的发展,留学、旅行、友好城市间的交流等两国间人们的交流范围急速增长,但在那背后,引起各种感情上心理上的摩擦和纠纷也已成为事实。目前中日两国间现实的交流和合作空前扩大,为什么在这种情况下摩擦和纠纷会显现出来?不必说有政治历史的原因,作者认为除此之外文化的要素也产生巨大的影响。回顾一下,自1970年中日建交正常化之初,两国之间的好感确实有很大的提高。但当时两国大部分的国民实际上是没有交流的,只是在书籍和感情上对对方形成“亲切感”。在这之后,两国人民直接交流增加,可以进行对话,以“同文同种”的标准来衡量对方,发现彼此的思考模式社会习惯生活习惯有多么不同,这很让人惊讶。更加因为还没有形成容忍对方不同点的心理和认识的差异增加彼此的反感。这种“想法差异”表现在很多方面,本文是通过对身边的中国人和日本人的“生和死”“名和耻”的性质以不同文化的观点来思考两国文化风俗习惯等。

2“耻”文化

以敏锐的视觉对日本文化进行考证受到高度评价的露丝•本尼迪克特的《刀与菊》。根据这位露丝•本尼迪克特女士的观点,可以把文化划分为两部分。(罪文化-----西欧的文化,耻文化-----日本人的文化)

这本著作的第十章中,本尼迪克特将此分析为“在罪文化里是人凭良心怀有罪的意识而行善。在耻文化里是由于从外部世间而来的强制性,为了不丢面子而行善”。

她把日本人视为耻文化的代表,日本人比起罪的意识更加重视耻的意识,是因为这是武士阶级成立以后的传统以及幼儿时期开始一直强调耻的教育而形成的。在日语中“知耻的人”是“有德的人”“重视名誉的人”。直到现在“不知廉耻”是作为侮辱男人的语言。对于成年男人来说,用这种语言骂人是非常激烈的表现。从其派生出“耻辱吧”这个语言也经常能听到。如果被别人说,大多数日本人会与对手对视采取行动,以表示知道耻辱。“以死”是其中一个选择,即使还没有达到自杀的程度。如果在日本的社会企业和组织中发生了重大的失误,或者部下犯了罪,所谓做了不知廉耻的行为的时候,那个企业和组织的负责人会说“切腹,负起责任”已成为习惯。当然迎来了21世纪的今天“切腹”这种行为是不被允许的。所谓“切腹”是指负起责任而辞职。

这一资料有时会使媒体活跃起来,是因为“知耻”日本人这一独特的性格。举一个例子来说,三菱汽车工业的某前社长因隐瞒有关索赔信息为了负起责任而辞职。

企业破产或在公关机关发生案件,部下做了不知廉耻的行为的情况下,怀有罪的意识指导部下不要再犯同样的错误,这是领导者应该有的态度。稍稍转移一下话题,“罪”文化的承担者西欧人的感觉又是怎样的,部下做了坏事,上司没有辞职的理由,那个时候辞职就相当于放弃了职场,在那时负责人因责任应更加勤奋努力。但是在日本社会西欧的做法是行不通的,被视为 “更加耻辱的行为”,成了批判的对象。

支撑日本人阶级社会的一个重要因素是“站在众人之上者,部下犯了错时,主动承担责任”这种的行为。这样的心理就是本尼迪克特所说的耻文化的形成。


原文:

1980年以降、日中両国経済交流が、目覚ましい発展を遂げるにつれて、留学、旅行、姉妹都市間交流など両国間での人的交流の幅も層も急速に拡大している。しかしその陰で、各種の感情的、心理的な摩擦やトラブルが起きているのも事実である。日中間での現実の交流と協力が空前のレベルまで拡大しているのに、そうした摩擦やトラブルなどが今になって表面化しつつあるのはなぜか。政治的、歴史的な原因があるのは言うまでもないが、筆者にはそれ以外に文 化的な要素が大きく影響しているように思う。振り返ってみると、1970年代の日中国交正常化当初、確かに相手に対する好感度が両国でともに高かった。ただ当時、両国の大半の国民は実際の交流に参加できず、書物や思い入れだけで相手への「親近感」が形成されていた。その後、両国民同士の直接の交流が増え、対話が進むことになっが、「同文同種」物差しで相手をはかることで、お互いの思考様式、社会習慣ないし生活習慣がいかに違うかを「発見」し驚くことになった。さらに違いを認め合う心理ができていないため、認識ギヤップが戸惑いから反感へ増幅されてしまう構造にある。その「思い違い」はいろんな面に現れているが、本稿では身近に感じた中国人と日本人の「生と死」や「名と恥」に対する文化的異質性の視座から、両国の文化や風俗·習慣などを取り上げ考えてみたい。

2「恥」の文化

日本研究において鋭い考証によっていまでも高い評価を受けているのに、ルース·ベネディクト女史の『菊と刀』がある。そのベネディクト女史によると、文化に次の二つのパターンがある。

“罪”の文化―西欧人の文化

“恥”の文化―日本人の文化 

その著書の第十章の中で、ベネディクト女史は「罪の文化においては人びとは内部の良心の働きにもとづき、罪の自覚をもちつつ、善行をおこなう。恥の文化 においては人びとは外部の世間からの強制にもとづき、恥をかかないように、善行をおこなう。」と分析している。

日本人を恥の文化の代表とみている彼女は、日本人が罪の意識よりも恥の意識を重視するのは武士階級成立以後の伝統と幼児期から恥を強調する教育を続けて来たためとみている。日本語で「恥を知る人」は「有徳の人」、「名誉を重んじる人」の意味である。いまでも「この恥らず!」という男を侮辱する言葉がある。成人の男児に対するののしり言葉としては、相当に痛 烈な表現である。この言葉から派生して「恥を知れ!」という言葉もよく耳に入る。それを言われたら、大抵の日本人は相手にそれに見合う行動をとって、恥を知る証しを示すである。「死をもって」というのはその選択肢の一つである。たとえ自殺するほど極端ではなくでも、日本の社会では、企業や組織で大きな失敗があった場合、あるいは部下が犯罪を犯したり、いわゆる破廉恥なことをしたときにはその企業や組織の責任者は、「腹を切って、責任をとる」という習慣がある。もちろん21世紀を迎えよとしている今日、「腹切り」などという行為が許されるわけではない。「腹を切る」とは、責任を取って辞職することである。

この手のニュースがときおりマスコミを賑わすのは、「恥を知る」という日本人独特の性格のためであろう。卑近の例としては、リコ一ルにつながるクレーム情報を隠していたために責任を取って辞職した三菱自動車工業の某前社長がいる企業が失敗したとか、公的機関で事件を起こしたとか、部下が破廉恥なことをしてしまったとかというようなケースでは、「罪」の意識をもち、そのようなことが二度と起きないように部下を指導するのが、リーダーである者の取るべき態度である。話がちょっと逸れるが、「罪」の文化の担い手である西欧人の感覚はどうであるかと言うと、部下が悪いことをしたのに、上司は辞める理由はない。そんなときに辞任するのは職場放棄に等しい。そのときには、「罪」のためにも、責任者は一層奮励努力すべきだというのである。だが、日本の社会では、西欧的なやり方は通用しない。それはいたずらに「恥の上塗りをする」ように批判されている。

日本人のタテ社会を支える重要な要素の一つは、「人の上に立つものは、部下がへまをしでかしたときには、泥を被って責任を取る。」ということである。このような心理が、ベネディクトの言う「恥の文化」を作り上げたのである。


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