何ものかが、宇宙にある、何ものかが、人生にある_日语外文翻译
编 辑:日语论文网发布时间:2018-10-17

译文:

那个法国的为了和平、自由而战却被杀害的斗士、政治家饶勒斯曾经这样写道:

“有时候我们脚踏大地,就能感受到大地那种静静的深深的喜悦。经常一边横穿过小路和原野,突然意识到,自己踏着的大地啊,我是她的,她也是我的啊!因此从不曾想到,我缓慢地走着,没有必要着急,每一步都可以感知到她,完全把握住她,可以说我的灵魂正向着深处进发。我经常横卧在水沟边,日落时分,面向着柔和蓝色的东方,我突然想到,大地正在旅行,摆脱一天的劳累和隐藏太阳的地平线,她拥有耀眼的飞跃,她带领着我一起走向那寂静的黑夜和无限的地平面。因此在我的身体里和在灵魂中一样,我的肉体同样的在大地中,感受到行进过程中的战栗。蓝色的天际在我们面前展开,没有一丝波纹,没有一丝褶皱,没有一丝耳语,我在这蓝色的空间里找到了不可思议的平静。啊!我们的肉体与大地的友谊和我们的目光与闪耀着星光的天空的谜样的模糊的友情比起来,该是多么的深厚,多么的强烈啊。即使在星光闪烁的夜晚,假如我们没有感受到与大地紧密相连,那样的美丽也逊色的多了吧.....”(罗曼罗兰 《超越战争》)

当读到这样文字的时候能够发现,他在告知我们他充满生命力的存在,而我们则蒙蔽了审视自身的双眼,戴着死鱼的视网膜一样地生存着。

可以说,艺术家们常常都只是为了把所有人的鱼的视网膜切下而存在的。

我们通过艺术,把奴性、封建性等一些污浊的历史角膜切除,在这二十万年间,人类向自己构筑的伟大的宇宙发出“宇宙有什么,人生有什么”这样的疑问。

答案是我们的眼瞳里必须带有这种清澈的眼光。

电影的镜头,代替了人的眼睛,以物质的看法,使物质刻在胶片上形成各种姿态,在1950年作为一种新的人造视觉,开始持有一种特别的角膜,这是坏的东西,又或是好的东西,可以说要根据我们人类这五十年的决意而定。

实际上这个新的瞳孔自身记录着那段敏感的历史阶段的标准。1930年的镜头和1950年的镜头绝对不同。在拍摄的胶片上一次性的记录着那段神圣的历史。并且对于使用电影镜头的民族来说绝不会混淆,蔡司有蔡司的见解,伊斯曼有伊斯曼的见解,而且不管对于哪个来说,春天拍摄的话绝不会弄错在秋天,夏天拍摄的话绝不会弄错在冬天。而且季节感从未隐瞒过历史的阶段。

之所以杂乱无章的联系着是因为导演以及编写者的艺术修养不够,之所以说是轻侮了伟人的眼光,无非是因为剧本作者自身训练不成熟的缘故吧。

集团在观察自身的时候,相机也好,胶片也好,正在使自身更加壮大。但是应该可以说,他们像“被捆缚着的普罗米修斯”还未能得到自由。

如今,确实,剧本本身不能是那个问题的症结所在。


原文:

かのフランスの平和の闘士であり自由の政治家であり、しかもその戦いのために暗殺されたジョレースは、次のように書いている。

「ときにわたしたちは、大地を踏むことに、大地そのもののように静かに深いよろこびを感ずる。いかにしばしば、小道を野原をよぎって歩みつつ、自分が踏んでいるのが大地であるということ、わたしが彼女のものであり、彼女がわたしのものであるということを、にわかに思ったことだろう。そして思わずしらず、わたしは歩みをゆるため、大地の表面を急ぐにはおよばなかったのだから、一歩ごとにわたしは彼女を感じ、彼女をすっかり把握していたのだから、またわたしの魂は、いわば、深奥へとすすんでいたのだから。またいかにしばしば、溝の辺りに臥して、日没のころ、柔らかな青色の東方に向って、わたしは突然、大地が旅をしつつあること、また一日の疲れと太陽のかぎられた地平をのがれて、彼女はめざましい飛躍をもって、静かな夜と無限の地平に向っていっていること、そして彼女がわたしを供にそこへつれていってくれることを思ったのであろう。そしてわたしはわたしの肉の中に、わたしの魂の中と同じように、またわたしの肉体と同様に大地そのものの中に、この進行のわななきを感じた。そしてわたしは、わたしたちのまえにただ一つの皺も、ただ一つの襞も、ただ一つのささやきもなしに開いているこの青い空間に不思議な和(なご)やかさを見いだした。おお、わたしたちの肉体と大地とのこの友情は、わたしたちのまなざしと星の輝く大空との迷う漠とした友情よりも、いかばかり深く、いかばかり強烈なものだろう。そして星のでた夜も、もしわたしたちが大地に結ばれていることを同時に感じなかったら、その美しさを減ずるであろう。……」ロマン·ローラン『戦いを超えて』)

こちらの言葉を読む時、彼が生き生きとほんとうに生きていることをわれわれに伝え、われわれの眼が死んだ魚の網膜のようなもので被われて生きていること、自身を見ることをさえぎられていることに気づかしめられるのである。

常に芸術家は、すべての人々から、魚の網膜を切りとるためにのみあるといえるのである。

われわれは、芸術を通して奴隷性から封建性等々、歴史の濁った角膜を切りとって、この二十万年の間、人類がみずから築ききたった大いなる宇宙への問い、

「何ものかが、宇宙にある。何ものかが、人生にある。」

と問い求めるすがすがしいまなざしを、今まさにわれわれの瞳孔もたなければならないのである。

映画のレンズが、人間の目に代わって物質の見かたをもって物質のフィルムに刻み込むいろいろの形は、一九五〇年において、新たな人造人間的視覚として、その特異なる角膜をもちばじめつつある。これが悪魔的なものとなるか、または神々的なものになるかは、われわれ人類のこの五十年における決意いかんによって定まるともいえるのである。

この新たなる瞳孔は一つに自分みずから実に敏感にその歴史的段階の標準を記録するのである。一九三〇年のレンズは、一九五〇年のレンズと決して同じでない。うつしたフィルムもその聖なる歴史の一回性をそのまま記録する。またそれを取り扱った民族においてもまぎれることはないのである。ツァイスにはツァイスの見かたがあり、イーストマンにはイーストマンの見かたがある。しかもそのいずれにもせよ、春にうつせば秋にまちがうこともなく、夏にうつせば冬にまちがうことも決してないのである。季節的季感に加うるに歴史的段階をみずからいまだっかていつわったことがないのである。

それを乱雑につないだのは、監督ならびに編集者の芸術的良心の不足であり、この巨人の見る目を軽侮したのは、シナリオ·ライターのみずからの訓練の未熟さを示すほかの何ものでもなかったといえるであろう。

集団が自分自身を観るにあたって、カメラもフィルムも、みずからを巨人的に創造しつつある。しかし、彼らは、「縛められたるプロメトイス」のようにまだその自由を得ていないというべきであろう。

今、まさに、シナリオそのものが、その鎖であってはならない。


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