映画と季感_日语外文翻译
编 辑:日语论文网发布时间:2018-10-17

译文:

记得在此之前的电影,夏天的表演是在冬天进行拍摄的,一边光着身子哆嗦着一边进行拍摄,而在盛夏的时候穿着厚厚的和服,撒下满满的盐当作雪堆。

但是那只是所谓的电影时代的遗留产物,电影作为一丝不苟的艺术正处在独立的阶段,事到如今是怎么也不会被允许的。

仅仅十六毫米的胶片上试着继续表现季节的变换,绝对鲜明的季节感。例如,一到春天,水面波光粼粼,试着在十六毫米的胶片上拍摄同一个地方一月、二月、三月、四月的水波就行,水光的季节感就可以不需要任何语言一目了然的在胶片上显示出来。

恐怕日本是世界上为数不多的季节感丰富的国家之一了吧。此外一定也是世界上少数几个心灵敏感的民族之一。

但是,至今我从没有听说过有描写季节感的剧本。

传统的日本俳句之所以没有“季”就不能被视作俳句,到底意味着什么?在老一套的普通俳句中,蝴蝶必定代表春天,昆虫必定代表秋天,过去的俳句都用季语,是形式主义,所以不做有季语的俳句就是理所当然的了。

然而试着深入思考的话,俳句里之所以有“季”是为了更好地把别的东西作为过往表现出来,所以“季”不是必要的存在吗?

如果没有“啊!现在我真的是与天地同在”的深深的存在感的话,艺术就不能诞生。

自己生存在世间,一副了不起的样子,居然连自己的身体构造都不能清楚的知道。对于宇宙的大的动向更是什么也不知道。连一朵百合花的构造一点也不知道。在很多不知道的东西里面,好像有什么能被我们感知到。那就是百合花是美丽的,星星是美丽的。懂得了应该珍惜自己。

现在,渐渐入秋了。因此,我是活生生的存在吧。没有这种令人惊叹的“啊”的感觉,看不到事物的变化的话,怎么能作成俳句呢。用一句话来概括松尾芭蕉的“静观万物皆自得”的话,必是“啊”的一声惊叹无疑。

在这样的存在中,为了把使自己沉浸进去的那种惊叹强加给人们,俳句中不是一定要有季节感的存在吗?

从有关的思考方法来说的话,不论哪一种形式的艺术,没有这种对存在的深切的哀感,这种艺术好像本身就不能成立。为什么仅限于俳句呢?


原文:

これまで映画は、夏興行のものを、冬撮ることになり、ブルブル慄えながら裸かものを撮り、夏の真中に着物をいっぱい着込んで、塩をいっぱいまいて雪のつもりにしたものであった。

しかしそれは、いわゆる活動写真時代の名残りであって、いやしくも芸術として映画が独立する段階にいたっては、もはや許されないことなのである。

よく十六ミリなどで季節の変わったものを継いで見ることがあるが。絶対にごまかしのならない季感がフィルムの上にあるものである。例えば、春になると水に光があらわれる。試みに十六ミリで同じ水を一月、二月、三月、四月と撮ってみるがよい。「水光る」季感は、いいようもない正確さでフィルムにあらわれてくるのである。

おそらく世界でも有数な季感の多い国土として、日本があるであろうが、また人のこころも世界で有数な敏感な民族であるにちがいない。

しかしわたしは、今までそのシナリオが、季感そのものを描かんとして書かれたということを聞かない。

日本の俳句が、伝統的に、「季」がなければ俳句とみされないということは、何を意味するであろうか。ありきたりの月並連中は、蝶は春、虫は秋ときめてしまっているが、こんなことはもちろんナンセンスな形式主義であり、かかる伝統に対して「季」のない俳句を作るということももちろん当然なことであろる。

しかし、深く考えてみるならば、俳句に「季」があるということは、ほかのことをいをうとしてそのことを簡単にいい現すために「季」が必ずいるということをいっているのではあるまいか。

「ああ自分はまさしく、今天地自然と供に生きてここにいる」という深い存在感がなければ、芸術が生まれないということをいいたかったのではあるまいか。

自分が、ここに生きていると、えらそうな顔をしているけれども自分の身体の構造すら、はっきりわかっていないのである。宇宙の大きな動きに対しても何もわかってはいないのである。百合一本の花の構造すら、何一つわかっていないのである。このわかっていない多くのものの中に、何かあるらしいことだけが、われわれには感ぜられているのである。そのことが、百合は美しいということでもある。星が美しいということでもある。またそして自分がいとおしむべきものであるということを知るのである。

今、秋につつある。そして、今ほんとうにわたしは生きているんだろうか。この「あっ」という驚きの感覚なくして、物を見ずして、どうして俳句ができようか。「寂かに観ずれば、物みな自得す」という芭蕉の感覚も一言にしていえば、「あっ」というこの驚きを、しかつめらしくいったにちがいない。

この存在の中に、自分自身をひたす感覚、その驚きを人々に強要するために、「季感」が必ず俳句にいるといったのではあるまいか。

かかる考え方をするならば、いずれの芸術か、この切々たる存在への哀感なくして芸術そのものが成立しそうもない。どうして俳句だげにとどまりえようか。


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