译文:
昭和十八年(1943年)举办了军国母亲的表彰仪式。这是由主妇之友社主办,在文化事业报告会上表彰军国的母亲的典礼。
军国的母亲就是大东亚战争以后送走出征士兵英灵的母亲。表彰这些把自己的孩子当作侍奉天皇的子弟兵的母亲,培养耐力强的特殊勇士的母亲,把自己的孩子变成特攻队员的母亲,为了军国的利益而死去的士兵的母亲。如此宣传作为信仰对象的天皇的形象和作为救济者的天皇的形象。(中间省略)
作为赏赐恩宠而存在的天皇的活动之一就是社会福利事业。日本的社会公共设施中,某些历史悠久的包含伊斯兰教元素的设施中几乎都立了昭宁皇太后和贞明皇后的出行碑。(中间省略)
母亲的悲愁
这种天皇和人民的关系从歌颂母亲悲愁的《心中的母亲》和《九段的母亲》等歌中描绘的世界中可以看出来。
《心中的母亲》是长谷川伸的作品。这个作品中投射出作者在幼时与父母分离的真实经历。昭和八年二月十二日,长谷川如愿以偿的和在《心中的母亲》中写到的生母及在当时第一高等学校担任教授的同母异父的弟弟法哲学者山谷隆,外务省人事课长山谷隆信见了面。在这次会面以后,女子学院院长山谷民子相当于隆正、隆信同父异母的姐姐,就志愿从事戏剧工作的学生的前途问题,与长谷川进行了交谈。顺便说一下,山谷隆信在战后成了昭和天皇的侍从长,和田岛道治一起组织宫中改革。
《心中的母亲》在新国剧中得到了岛田正吾的忠太郎的评价,拍成了电影,昭和十一年做成了坂口文绪作词、沢重藤作曲的歌谣,很是受欢迎。忠太郎的歌中写着:“借一点地方住的母亲简短的向忠太郎说,没见到也好就不用伤心了,这不就是人世间吗?”讴歌了从未能见到母亲的孩子的悲愁。在滋贺县番场(米原市)的莲华寺里有昭和三十三年长谷川捐赠的番场忠太郎地藏尊,露天影院有忠太郎的铜像。
昭和十四年,从“满洲事变”到“支那事变”,因为在大陆战死者的增加,举办了靖国神社临时大祭,并在此时发表了贴近死者家人心情的歌《九段的母亲》(石松秋二作词,能代八郎作曲)。《九段的母亲》中写到:“从上野车站到九段,因为不了解情况,所以着急,拄着拐杖走了一天,才和犬子相见。平凡的父母生出卓越的孩子,所以现在得到了回报,一直想看金鸱勋章,就到九段坂见了面。”从以上描述中表现出母亲从边远的故乡想要看望过逝的子女的心绪。
在此描述的世界中,把自己的孩子当作“天皇的孩子”,因为必须信奉天皇,所以母亲只能成为“永远留在记忆中的母亲”。在此包含了只有被圣心俘虏才能活下来的母亲的苦痛。
这样的母子关系在日本“转向”这一的现象中也可以看到。参与共产主义运动的人们通过思想检查,宣誓放弃原先的思想、主义,立誓转向的想法。当时的报纸用“在母亲的怀抱里大声哭泣”的新闻来介绍这些思想转变成功的人,想要以此来描述天皇的恩宠。在此,“放荡的儿子”回归母亲的怀抱,暗示了作为天皇子女的复苏。也就是被党剥夺的子女,侍奉党的子女在死后得以回归,或者是以“社会的失格者”的姿态回到母亲的怀抱。
原文:
昭和十八年(一九四三)に、軍国の母顕彰式が行われます。これは主婦之友社が主催で、文化事業報国会として軍国の母を顕彰する式典でした。
軍国の母とは、大東亜戦争以後、御国の英霊として出征兵士を送り出した母親です。国は、子どもを軍国の兵士として天皇に捧げた母親、忍耐強く殊勲勇士を育て上げた母親、息子が特攻隊員となった母親、そうした軍国の規範として戦死した兵士の母親を表彰しました。かくして、信仰の対象としての天子像と、救済者としての天皇像が広がっていきます。﹙中略﹚
恩寵を下し賜る存在としての天皇を演出した一つが社会福祉事業へのかかわりです。日本の社会事業施設には、キリスト教系のものも含めて、歴史的由緒のある施設のほとんどに、昭憲皇太后や貞明皇后の行啓碑が建立されています。﹙中略﹚
母の悲愁
こうした天皇と人民の関係は、母の悲愁を歌った「瞼の母」や「九段の母」などの歌が描き出した世界に、見出すことができます。
「瞼の母」は長谷川伸の作品です。この作品には幼くして母と別れた実体験が投影されています。長谷川は、昭和八年二月十二日に「瞼の母」と探しつづけていた生母こうと異父弟である当時第一高等学校(現東大教養学部)教授であった法哲学者山谷隆正、外務省人事課長山谷隆信と念願かない対面することができました。女子学院院長の山谷民子は、隆正、隆信の異母姉にあたり、この対面後に演劇をこころざす生徒の進路につき長谷川伸に相談するなどしています。ちなみに山谷隆信は、戦後に昭和天皇の侍従長となり、田島道治とともに宮中改革に取り組みます。
この「瞼の母」は、新国劇で島田正吾の忠太郎が評判をとり、映画となり、昭和十一年に坂口ふみ緒作詞、沢しげと作曲の歌謡曲となり、流行しました。番場の忠太郎に託された歌は、「軒下三寸借り受けまして申し上げますおっかさんたった一言忠太郎と呼んで下せえたのみます。会わなきやあ良かった泣かずに済んだこれが浮き世と言うものか」と、まだ見ぬ母親を想い焦がれる子の悲愁が謳いこまれています。なお滋賀県番場(米原市)の蓮華寺には、昭和三十三年に長谷川伸が寄進した番場忠太郎地蔵尊があり、ドライフインには忠太郎の銅像があります。
また昭和十四年には、満州事変から「支那事変」へを、大陸での戦死者が増大していくなかで営まれる靖国神社臨時大祭に参列する遺家族の心に寄りそった歌「九段の母」(石松二作詞、能代八郎作曲)が発表されます。「九段の母」は、「上野駅から九段までかってしらないじれったさ杖をたよりに一日がかりせがれきたぞヤ会いにきた。鳶が鷹の子うんだよでいまじゃ果報が身にあまる金鵄勲章がみせたいばかり逢いに来たぞや九段坂一」と、語りかける世界には、僻陬の故郷から、死んだ子を訪れる母の想いが託されています。
ここに描かれた世界では、我が子を「天皇の子」となり、天皇を親とし、天皇に捧げざるをえなかったがために、母親は「瞼の母」にしかなれなかったのです。ここには、大御心にとらわれてでしか生きれない母の慟哭があります。
このような母と子の関係は、日本の「転向」といわれる現象にも見ることができます。共産主義などの運動に関わった人たちは、思想検察によって、心を殺され、抱ける思想からの転向を誓います。当時の新聞は、これら転向者が出所してくると、「母のもとに大声で泣き」という記事で紹介し、天皇の恩寵を描こうとしています。ここには、「放蕩息子」が母に回帰し、天皇の子として蘇生していくことが示唆されています。いわば党に奪われた子、党に捧げた子、その子は死んで帰ってくるか、「社会的失格者」となって帰ってきたのです。