译文:
“天皇的国家”这一具有日本特色的问题早在明治四十四年初就在河上肇的一篇名为《日本独特的国家主义》的论文中提出了。河上质问说:“欧洲以人格为中心,而日本却以国格为中心,只依赖天皇和国家而不能主张自我的存在,这就是日本国民吗?”在国外,由于每个人都有自己的人格,对政府有自己的看法,所以政治形态也在不断变化着。人格是自己的、独一无二的。而日本只有国格没有人格。只考虑依赖国家的情况,从不考虑自己的存在。也就是与西方的“天赋人权,民赋国权”相反的“国赋人权,天赋国权”,其结果就是与西方人的人格相对的,日本人注重国格。天皇被规定是:保有完整的国格,把国家的利害当作自己的利害,不应该给予国家公有利害以外的私有利害,因此从日本人的信仰来看,天皇是最尊贵的。对于这一点,河上质问说:“只要不超越这一规定,不就改变不了吗?”河上质问“日本的国家主义”并暗示:正因为“国家强大和个人脆弱”,国家强大而作为个体的日本人脆弱,所以不能期待真正的国家强盛。明治末年,河上发现南原繁追问的“人类意识”的根源与“天皇的国家”相对立。
我认为日本人不是因为自觉的质问在此提出的问题,而是因为在国家、组织、集团的归属意识的驱使下行动的。作为个人,为了确定自己的存在,必须通过与某个绝对的人的垂直关系来谋求自己的位置。这不单是把天皇当作绝对者,而是把天皇当作某种超越的存在才得以实现的。在日本,人们想要通过天皇不是国家来保护自己的立场,正因为如此,作为人的存在也变得稀薄了。
所谓男原繁向占领下的日本人提出“对人的目光”的薄弱不是因为有了天皇才有的“我”,而是每个日本人有必要开始考虑一下,所谓的自己的存在是什么,自己本身又是怎样的存在。为了回答这一问题,必须通过了解所谓的绝对的垂直关系,来思考所谓的我是什么。对南原繁来说,这些是从内村鉴三那里学到的信仰。在战时一直鼓吹信仰的矢内原忠雄也是一样的。他们虽然和老师内村鉴三一样,对天皇存在持有某种共鸣,但也要与这磁场保持一定距离,坚守自己的存在。这无非是因为信仰持有内在的权威性。多数的日本人用仰视的目光面对天皇,因此被天皇的磁场束缚着,只有通过磁场释放出来的外在权威性才能确定自己的存在。
对外在权威的依赖的思维方式在共产主义中也可以看到。也就变成了对共产党权威的信仰(左翼天皇制)。正因为如此,每个人以什么样的方式面对天皇,构建自我这一问题是解读近代日本时必须面对的。
我认为在发掘天皇这一存在所放射出来的磁场所起的作用的同时,有必要继续提问关于“我”是怎样确保自身存在的问题。这些质问并不是为了通过讨论“天皇制”、否定“天皇制”使自己得到满足,而是为了知道我作为一个人,应具有怎样的内在权威性而活着。众所周知,日本近代史是“尊皇思想”破碎和飞散的历史。因此,怀疑天皇崇拜的权威机构想通过适当的透视画法来描写历史。
原文:
このような天皇の国日本の問題は、すでに明治四十四年初頭に河上肇が「日本独特の国家主義」なる論文で鋭く告発しています。河上は、ヨーロッパは人格を中心にしているが、日本は国格を中心としている。天皇により頼み、国家により頼んでしか、自己の存在を主張できない。それが日本国民だと問い質しています。外国では、一人ひとりが人格を持った存在であるがゆえに、政府に対して一人ひとりがものを言うし、そういうなかで政治形態も変わっていっている。人格が自分なのである。日本には人格がなくて国格がある。国家に依存するかたちでしか、己の存在という場を考えられない。いわば西洋が「天賦人権、民賦国権」なのに対し、日本は「国賦人権、天賦国権」であり、その結果、西洋人の人格に対し日本人は国格を重んじる。天皇は、「完全なる国格を保有し」「国家の利害を自己の利害とし」、「国家の公の利害の外別に個人としての私の利害を有し給はず。故に日本人の信仰よりすれば天皇は最高最貴の方」であると。これを乗り越えられない限り変わらないのではないか、というのが河上肇の問いかけです。かく河上は日本の国家主義を問い質し、日本は「強き国家と弱き個人」の社会であるがため、国家の真の強いが一個の日本人として弱いがため、国家の真の強さを期待しえないことを示唆しています。河上の目は、南原が「人間意識」と問い質した根を明治末年にとらえており、「天皇の国」に対峙しうるものでした。
思うに日本人は、ここに提起された問題を自覚的に問い質すことなく、国家に、組織に、集団への帰属意識で動かされているのではないでしょうか。一人の人間として、己の存在する場を確かめるには、ある絶対的なる者との垂直な関係で、己の立ち位置をはからねばなりません。それは天皇を絶対者に見立てることではなく、天皇をも超越した存在に眼を向けたときにはじめて可能になるものです。日本では、天皇が国家であるとなし、絶対視することで己の場を保とうとしたがために、人間たる存在が希薄になったのではないでしょうか。
南原繁が占領下の日本人に呼びかけた「人間に対する目」の弱さとは、天皇があって私があるのではなく、日本人が一人ひとり、己の存在とは何か、自らがどのような存在かを考えることが必要だとの問いかけです。この問いに応えるには、絶対的な何かとの垂直関係に眼を向け、我とは何かに想いいたすことではないでしょうか。南原繁にとっては、それが内村鑑三から学んだ信仰でした。戦時下に信仰を説き続けた矢内原忠雄にしても同じです。彼らは、師内村鑑三と同じように、天皇という存在へのある種の共鳴盤をもちながらも、その磁場に距離をとり、己の場を堅持していました。それは信仰による内的権威性をもっていたからにほかなりません。多くの日本人の場合、その垂直に仰ぎ見る眼が天皇に向かったが故に、天皇という磁場にからめとられ、磁場が放射する外的権威性によってでしか己の存在する場を得ることができませんでした。
この外的権威によりたのむ思考の回路は、日本のコミュニズムにも見られたことで、「共産党」という権威への信仰ともなっていました。それだけに一人ひとりが、どのようなかたちで天皇の在り方と向き合い、己の場を築けるかが、日本の近代を読みとる上で問われているのです。
天皇という存在が放射する磁場がどのように働いているのかを一つひとつ掘り下げていくなかで、「私」がどのように己の存在の場を確保するかという問題を問い続けていくことが必要なのだと思われます。その問い質す作業は、「天皇制」を云々し、否定することでこと足れりとするのではなく、私が一人の人間として、どのような内的権威性を身につけて生きれるかということでもあります。思うに日本近代史は、「尊皇思想」の破砕と飛散の歴史でした。それだけに、天皇崇拝が問い語る威厳のメカニズムに適度な遠近法をもって歴史を描きたいものです。