嫉妒是什么。
当我们分析嫉妒时,我们知道:嫉妒是一种极复杂的,如上所列举出来的,由各种各样感情所组成的情感。在嫉妒的名义下,我们心中怀有非常多的情感,混乱一片。
如果我们尝试着好好地看一下自己的内心,实际上这混乱的感情有两种。我明白这各有中心的两种混乱感情,在我们的心中激烈地碰撞着,激起了飞溅的水花,使我们的心不能平静。
斯宾诺莎曾经领会到:嫉妒的本质是“爱恨”。
两种混乱的感情中心也就是爱和恨。
于是,这爱恨里便凝结着嫉妒。
“假如有人想象着他所爱的对象与另一个人结有相同或更亲密的友谊,胜过他此前独自与他所结的友谊,那么他将恨他所爱的对象,并且嫉妒那另一个人。”“这种与嫉妒相伴随的对于所爱的对象的恨便叫做猜忌。故猜忌不是别的,乃是心情的波动,这种心情的波动是起于同时感觉着爱与恨,并且伴随着我们所嫉妒的另一个人的观念。”(斯宾诺莎《伦理学》三·三五)
“先生”的爱恨是对静的爱恨,“先生”的嫉妒是对K的嫉妒。
爱和恨是正反对立的两种情感,却在“先生”心中同时共存着。
在K对静坦白的时候:“那时的我说是恐惧感的结晶也好,说是痛苦的块体也好,总之就是一个物件,从头到脚都像石头、铁块一样凝固了,连呼吸的弹性都已失去。”(下三六)
“先生”的这种爱,参照他所说的“极高尚的爱的理论”来看的话,能称得上是“真正的爱”、“真爱”吗?
与“对她我怀有一种近乎信仰的爱”对比而言,“先生”的爱与“真爱”、“深信”好像并不相称,而是被各种各样的感情折磨着。也就是深陷在惊恐、不安、害怕、悲伤、气馁、空虚、愤怒、苦痛、绝望、后悔、疑惑、迷惘、自卑感、不信任感、焦急、忧郁等等的感情里。
这些与其说是和“真爱”、“深信”相互关联,倒不如说是与“不成熟的爱”、“浅信”相互关联,难道不是吗?
爱与恨是相反的两种感情,不信任与深信也是绝不会相容的两种感情。
笛卡尔等人相当严厉地说过这样的话:
“因妻子而嫉妒的男人是被蔑视的。因为,那是他没有用正确的方法去爱他妻子的证据,那是他把他自己与他妻子之间的关系想坏了的证据。他没有用正确的方法去爱他的妻子,我说这句话的意思是,如果他是真爱他妻子的话,他就肯定不会对妻子不信任。他爱的并不是他的妻子,而只不过是独占着妻子的这份幸福感。”(笛卡尔《情念论》一六九)
通常,嫉妒被认为是爱的证据。
“先生”也说过下面这样的话:
“说句题外话,这种嫉妒不就是爱的另一面吗!结婚之后,我觉得这种情感渐渐淡薄下来。而与此同时,爱情也绝不如原来那般炽热了。”(下三四)
但是,笛卡尔说的“嫉妒并不是真爱的证据”这句话我们有必要十分注意。
嫉妒真的常常是爱的证据吗?
倘若笛卡尔是正确的,那么即使嫉妒在结婚以后逐渐变得淡薄,但对妻子的真爱未必就变得不再强烈了吧。
嫉妬とは何か。
私たちが嫉妬を分析すると、それはきわめて複雑な情念で、上に列挙した、実にさまざまな感情から成り立つものであることがわかる。嫉妬の名の下に、私たちの心の中では、実に多くの情念がせめぎあい、渦巻いているのである。
けれども、私たちがみずからの心をよくよくのぞいてみれば、実は、その渦巻きは二つあり、二つの中心を持つ二つの渦巻きが、私たちの心の中で激しくぶつかりあい、しぶきをあげて、とどろいていることがわかる。
かつてスピノザはジェラシーの本質を「愛憎」としてとらえた。
二つの渦巻の中心とは愛と憎しみである。
そして、その愛憎に「ねたみ」が結びついている。
「もしも、愛されるものが、自分がかつて独占したと同じか、むしろそれ以上に緊密な友愛の絆によって、他人と結びつくのを人が想像するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、他人に対してはねたむだろう」(スピノザ『エチカ』三·三五)。
「ねたみと結びついた、愛するものに対するこの憎しみはジェラシーと呼ばれる。それは、したがって、ねたまれる他人の観念をともなって、愛と憎しみから同時に生じる心の動揺に他ならないのである」(スピノザ『エチカ』三·三五)。
「先生」の愛憎とは、静への愛憎であり、「先生」のねたみとはKへのねたみである。
愛と憎しみとは正反対の情念であるのに、「先生」の心の中には、その愛と憎しみとが同居しているのである。
Kから静への恋を告白されたとき、「その時の私は恐ろしさのかたまりといいましょうか。または苦しさのかたまりといいましょうか、なにしろ一つのかたまりでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に堅くなったのです。呼吸する弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです」(下三六)。
さて、その愛は、「先生」の言う「きわめて高尚な愛の理論」に照らせば、「本当の愛」「真の愛」という名に値するものであろうか。
「私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛を持っていたのです」と言うわりには、「先生」は、ずいぶん、「真の愛」や「深い信」にはそぐわないようなさまざまな感情にさいなまれているのではないだろうか。すなわち、驚き、不安、恐れ、悲しみ、落胆、空しさ、怒り、苦しみ、絶望、後悔、疑惑、迷い、劣等感、不信感、焦り、憂鬱などに。
これらは、「真の愛」や「深い信」の相関者であるというよりも、「幼い愛」や「浅い信」の相関者であるのではないだろうか。
愛と憎しみとは相反するものであろうし、不信感などは「深い信」とは、決して、相容れないものであろう。
デカルトなどは、かなり手厳しく、こう言うくらいである。
「その妻に関して嫉妬する男は軽蔑される。と言うのは、それは、彼は彼女を正しいしかたで愛していない証拠だからであり、彼自身と彼女について悪く思っている証拠だからである。彼が彼女を正しいしかたで愛していない、と私が言うのは、もし彼が彼女に対する真の愛を持っていたならば、彼女に不信をいだくという気持ちになどならなかったはずだからである。彼が愛しているのは、本当は、彼女ではなくて、彼女を独占することのうちにある(と彼が想像している)幸福を愛しているのにすぎないのである」(デカルト『情念論』一六九)。
通常、嫉妬は愛の証拠と言われる。
「先生」もまた次のように言う。
「これは余事ですが、こう言う嫉妬は愛の反面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいでゆくのを自覚しました。その代わり愛情の方もけっして元のように猛烈ではないのです」(下三四)。
けれども、デカルトが「嫉妬は真の愛の証拠ではない」と言っていることに、十分注意する必要がある。
本当に嫉妬は、常に、愛の証拠であろうか。
もしも、デカルトが正しいとすると、嫉妬が、結婚以来、しだいに薄らいでいくとしても、妻への真の愛が猛烈でなくなるとはかぎらないということになる。
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