夏目漱石の『こころ』における嫉妬の構造_日语外文翻译
编 辑:日语论文网发布时间:2018-10-11

IV“先生”自杀的真正原因

对于“先生”来说,关于“爱是什么”的深刻理解看起来像是这样的。

从下面的文章中可以充分的看出:

“对她我怀有一种近乎信仰的爱。见我把这只适用于宗教的语言用在了年轻女子的身上,你也许会觉得惊异,但我到现在仍深信不疑。我深信真正的爱与宗教信仰并没什么不同。每当我看见小姐的面容,便感到自己也变得美好了。每当想到小姐,便顿时觉得自己也变得高雅了。假如爱这个神圣的东西存在两端,高的一端涌动着神圣感,低的一端涌动着性欲,那么我的爱确实到达了高的一端。我作为一个人,不能离开身体本能的欲望,但当面对小姐时我的心,都不带有任何肉欲的气息。”(下一八)

上文与下面的(1)、(2)有着密切的相关性。

(1)“先生”爱着静。

(2)“先生”信任着静。

倘若“先生”爱着静的话,那就一定会信任着静。

倘若“先生”深深地爱着静的话,那就一定会深深地信任着静。

爱的深度与信任的深度一定是紧密一致的。

当然这些可以说是理想论,我们的爱情在现实里缠绕着各种各样的限制和纷扰。

我们的信任在现实里也缠绕着各种各样的限制和纷扰。

但是在这里“先生”却更进一步地用了“真正的爱”这个词语。

“真正的爱”是指一切限制与纷扰都没有混入余地的爱,是纯粹的、彻底的、完全的爱。

漱石想:这些倘若可能实现的话,那么这爱应该就与信任的最高形式信仰相一致了吧。

“真正的爱”“真爱”“永久的爱”这些词语在欧洲中世纪也被广泛地使用。即使在提出“对人的爱”的时候也会想起与“对神的爱”、“对神的信仰”的密切联系。

如果是这样的话,那么看起来能透彻理解“爱是什么”的“先生”为什么会受到嫉妒的驱使,对挚友K做出背叛的行为呢,我感到很奇怪。

我想:对爱的理解这样透彻的人物,与理解混乱的人不同,没有必要被嫉妒驱使,做出背叛挚友这样愚蠢的行为。

下面是“先生”的“极高尚的爱的理论”:

“如果小姐更倾心于K,那么我的爱恋也就失去了说出口的价值。这和蒙受羞辱有点不同,喜欢的人对他人倾慕不已,即使自己再喜欢,我也不愿意和这样的女人在一起。”(下三四)

从这“高尚的爱的理论”里来看,不正是因为嫉妒而产生了背叛的行为了么?

“先生”在这里以“极高尚的爱的理论家”自居,同时又以“最迂回的爱的实践家”自居,这样理论和实践之间的分裂能处理好吗?

这分裂在这种情况下,像是令人头昏目眩的断崖绝壁一样。

试着从“先生”被嫉妒驱使的最初情况论起:

“如今回顾起来,我对K的嫉妒那时便已明显萌芽了。”(下二七)

如上所述,《心》里也包含着其他情况,揣测这个时候“先生”的内心,他的嫉妒里还包含了特有的惊恐、不安、害怕、悲伤、气馁、空虚、愤怒、苦痛、绝望、后悔、疑惑、迷惘、自卑感、不信任感、焦急、忧郁等等非常多的情感,看起来非常混乱。


Ⅳ「先生」は本当はなぜ自殺したのか

「先生」には、「愛とは何か」についての深い理解があるように見える。

 それは、次の文章からも十分にうかがえる。

「私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛を持っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかもしれませんが、私は今でも堅く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないということを堅く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持ちがしました。お嬢さんのことを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移ってくるように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が働いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点をつらまえたものです。私はもとより人間として肉を離れることのできないからだでした。けれどもお嬢さんを考える私の心は、まったく肉のにおいを帯びていませんでした」(下一八)。

上の文章は、以下の(1)と(2)との密接な関係性に触れたものであろう。

(1)「先生」は静を愛する。

(2)「先生」は静を信じる。

 もしも「先生」が静を愛しているとすれば、「先生」は必ずや静を信じているに違いない。

 もしも「先生」が静を深く愛しているとすれば、「先生」は必ずや静を深く信じているに違いない。

 愛の深さと信の深さとは厳密に一致しているに違いないのである。

 もちろん、それは、いわば、理想論であって、私たちの愛には、現実には、さまざまな限界や紛れが付きまとうものであろう。

 それゆえ、私たちの信にも、現実には、さまざまな限界や紛れが付きまとうものなのである。

 けれども、ここでは、「先生」は、さらに一歩を進めて、「本当の愛」との言葉を用いている。

「本当の愛」とは一切の限界や紛れの入り込む余地のない純粋な、徹底的な、完全な愛のことであろう。

それが、もしも、可能なら、それは、必ずや、私たちの信の最高形態である信仰と一致しているはずと漱石は考えるであろう。

「本当に愛」や「真の愛」「永遠の愛」との言葉は西洋中世でもよく使われる言葉であった。それは、たとえ「人への愛」の形をとるときには、「神への愛」「神への信仰」と密接に結びついているものであったことが想起される。

このようにして、「愛とは何か」についての実に透徹した理解があるように見える「先生」が、なぜ嫉妬に駆られて、無二の親友であるKを裏切るような行為に及んだものであろうと不思議に思われる。

 私が思うには、これほど透徹した愛の理解を持つ人物なら、にごった理解を持つ人物とは異なり、嫉妬に駆られて、親友を裏切るような愚行には及ばないものである。

 現に、「先生」には次のような「きわめて高尚な愛の理論」もある。

「はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けでいるならば、この恋は口へ言い出す価値のないものと私は決心していたのです。恥をかかせられるのがつらいなどというのとは少しわけが違います。こっちでいくら思っても、向こうが内心ほかの人に愛の眼を注いでいるならば、私がそんな女といっしょになるのはいやなのです」(下三四)。

 このような「高尚な愛の理論」から、嫉妬に起因する裏切り行為などは生じてくるものであろうか。

「先生」は、ここで、みずからを「きわめて高尚な愛の理論家」と自称しつつも、同時に、「もっとも迂遠な愛の実際家」とも自称しているから、理論と実践の分裂として片付けられるのであろうか。

 けれども、その分裂は、この場合、まるで目もくらむほどの断崖絶壁のようである。「先生」が嫉妬に駆られる最初の場面(下二六)に立ち返って論じてみよう。

「今から回顧すると、私のKに対する嫉妬は、その時にもう十分にきざしていたのです」(下二七)。

 すでに述べたように、『こころ』の他の場面も含めて、このときの「先生」の心中を推し量ると、ジェラシーに特有の、驚き、不安、恐れ、悲しみ、落胆、空しさ、怒り、苦しみ、絶望、後悔、疑惑、迷い、劣等感、不信感、焦り、憂鬱……など、実に多くの情念がせめぎあい、渦巻いているように見える。

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