奈良的茶人松屋久荣在永禄年间(1558-70)经营的茶室,继承了武野绍鸥的四张半榻榻米大小的茶室样式,面宽一间的壁龛构造就如“壁龛框的下壁,草席中有板一寸三分”中描述的那样,在壁龛框和榻榻米中间加入高1寸3分(约4cm)的踏脚板。从其他的例子来看,带有踏脚板的壁龛是旧的样式,据推测这可能是壁龛的原型“牀”(贵人起居放脚的台子)所遗留下来的。
茶室在以低平的空间为目标发展的过程中,踏脚板就消失了,但仍可以把直接框放置在榻榻米上。在有美术品装饰,宽松的氛围中聚集主客,把紧密相关的时间和空间结合在一起的文艺和游艺场所为母体而成立起来的茶室是闲寂茶的茶屋。闲寂茶是“无装饰物,干净,简素”这样一种理想的境地。因此,闲寂茶的空间极力向节省室内陈设的方向发展。据说,在《鸟鼠集》和《相阿弥传书》中展示的最初的茶室图中摆设只有壁龛。这种壁龛是集押板、高低搁板、固定几案于一体的。因此,最初茶室里的壁龛,宽度原则上为1.8米,即相当于一个铺席的尺寸。
把茶道的器具直接放置在榻榻米上,这种方式的形成,使壁龛的特性更加纯化。换言之,由于备有谁也不坐的壁龛,在主客同席的集会场所更能清楚的了解到壁龛的特性,也就是说,给予席中每个人平等的感觉。
奈良の茶人・松屋久栄が永禄年間(1558〜70)に営んでいた茶室は、武野紹鷗(1502〜55)の四畳半を継承したものであったが、間口一間の床構えは「床カマチノ下壁、敷居トノ間ニ一寸三分板有」と伝えられるように、床框と畳との間に高さ1寸3分(約4㎝)の板(蹴込板)が入った框床であったことがわかる。他の例からも、蹴込板の入った床の形式が古形であり、それは床の原型である「牀」(貴人が座臥する脚付きの台)のなごりを留めているからではないかと推測される。
茶室が低平な空間を目指す動きのなかで蹴込が消滅し、畳の上に直接框を置く形式に進んだとみることができる。美術品を飾り付け、寛いだ雰囲気のなかで主客が寄り合い、親密な時間と空間をともにした文芸や遊芸の場を母胎として成立したのが侘び茶の座敷である。侘び茶は「物スクナク、浄ク、手カロ(軽)クスル」境地を理想とする。そのため、侘び茶の空間は極力室礼(舗設)を省く方向に進んだ。初期の茶座敷(茶室)の様子を伝える『烏鼠集』や『相阿弥伝書』には床を設けただけの座敷図が掲出されている。その床は、押板、違棚、付書院の機能を一つに集約したものであろう。したがって初期の茶室に構えられた床は、間口一間で畳一畳分に相当する広さをもつことを原則としていた。
茶の湯の道具を畳の上に直接置き合わす方式が成立するに至り、床の性格はより純化していく。すなわち、誰も坐さない床を備えることによって、主客が同座する席は寄合の場であるという性格がいっそう明確に認識され、座中の人々に平等性を与えることになった。
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