然而,像洛中洛外图这样的作品,就没有那样的固定不动的角度。虽然整个城市整体是从高高的云上往下看的,但每一个场景都好像身临其境般被细致的描绘出来。在看画面右手边耍猴场景和画面左手边祭祀队伍时,画家的观察角度是不一样的。这样一来,画面中各个场景之间的立体距离关系就无法表现出来。如果硬要说的话,各个场面,各个人物,都是在能清楚地看得见和服花纹这样极近的距离处描绘的,整体而言无非就是那一个个的场景和人物的集合。
因此,日本的绘画表现不是写实性的这一说法只有在考虑整体空间结构时才能成立。在日本绘画中,的确不存在从固定角度观察世界的写实手法。但是细节部分的观察(例如能达到把江户碎花这样的细小花纹清晰地描绘出来的程度)很细致,正如在应举和北斋的写生帖中所看到的那样,有着不输于西欧艺术家的“写实性”。
这和极具日本特色的平安、镰仓时代的画卷里的绘画形式,手法是一样的。本来画卷就是让人一个部分一个部分依次观赏的,没有人会一下子看整体。可以说那也是欠缺整体统一结构的各个部分的组合。这正好与日本的传说故事是相对应的。日本的传说不是展开首尾一贯的情节,而是将各种各样的趣闻轶事聚集在一起。更不用说像《徒然草》和《枕草子》这样的随笔文学和日记文学,也是各种各样见闻感想的集合。比起那些整体结构,日本人更喜欢细小部分的集合。大野氏曾指出体现细节的单词“くわし”,在上代时被用作“美丽的”这个意思。大野氏的这段话可以说更加证明了日本人喜爱纤细弱小的这一观点。
ところが、洛中洛外図のような作品では、そのような一定不動の視点などはない。町全体は高い雲の上から見下ろしされているが、個々の情景はそれぞれその場に立ち会っているように綿密に描き出される。画面右手の猿回しの情景を見ている時と、画面左手の祭礼の行列を描く時の画家の視点は同じものではない。とすれば、画面にお互いの情景の間の立体的な距離関係が表現されとうがない。強いていえば、それぞれの場面、それぞれの人物は、着物の柄まではっきり見えるほどの至近距離から描かれているのであって、全体はそのような個々の情景·人物の集積にほかならないのである。
したがって、日本の絵画表現は写実的でないということも、全体の空間構成を考えた時にのみはじめて言い得ることである。確かに、一定の視点から眺めた視覚世界という意味での写実的な表現はそこにはない。しかしその代わりに、細部の観察(江戸小紋の細かい模様まではっきりと描写するぐらい)、綿密であり、応挙や北斎の写生帖に見られるように、西欧の優れた芸術家に劣らないほど「写実的」なのである。
この事は、例えば極めて日本的な絵画形式である平安、鎌倉の絵巻物についても同様である。もともと絵巻物は、部分を次々に観賞していくものであって、あれを全体一度に眺めようとする人はいない。いわばそれも、全体の統一的な構図を欠いた部分の寄せ集めである。それはちょうど、日本の「物語」が、首尾一貫したプロットを展開するというよりも、さまざまのエピソ―ドの寄せ集めであるのと対応する。まして、「徒然草」や「枕草子」のような随筆文学や、日記文学が様々の見聞·感想の寄せ集めであることは言うまでもない。日本人は全体の構成よりも、このような細かな部分の寄せ集めをことのほか好んだようである。細部への関心を示す「くわし」という言葉が、上代においては「美しい」という意味に使われていたという大野氏の指摘もこのことを裏書きするものと言ってよいであろう。