可是,就日本人而言,比起强大的事物,弱小的事物对于他们的感情有更加强烈的刺激。《枕草子》中用“美丽的”来形容小雀玩耍时的样子。在日本像这样的小动物和“只有三寸大小”的赫映姬特别受到青睐。当然这种情况下的美与现在的“美”的一般意义有所不同,含义更加情绪化,对于弱小的事物表现爱的语言,发展成为表示“美”的语言过程中,我们能明确地认识到,与西方的美意识完全不同的日本人对美的感受性。其实不用西欧,汉字的“美”是是用来表示“羊之大”的象形文字,由此可见,日本的美意识与邻邦中国相比有很大的差异。(比如说 “绮麗”的“麗”是通过鹿的角是高大威猛的而表现出来的文字)发展出日式盆景、盆栽那样独特的艺术的日本人的美意识,早已存在于上代的美之中。
即使不提如日式盆景那样特殊的存在,从能够在数坪的的空间里,展现出深山幽谷风味的日本人的造园艺术也可看出日本人对缩小的世界的喜爱。以铠甲的头盔都做的惟妙惟肖的五月人偶为例,日本精巧的人偶,经常为外国人所感叹,我想我们的祖先一定不仅从中欣赏人偶师傅高超的技艺,同时也获得了极大的美的享受。
这样的感觉在工艺品的世界里特别明显,在绘画的世界里也是清晰可见的。近代初期创作的大量洛中洛外图和风俗画屏风等,宛如文字所述,就是一个微缩的世界,在那个世界里,比赫映姬更小的主人公们为我们演绎了精彩有趣的民间传奇。
和西欧画相比日本的绘画是极其平面和装饰性的,经常被认为没有一个统一的空间构成。话虽如此,但这样的绘画表现手法的特点,实际上和日本人的以小为美的审美观有很大关系。
どころが、日本人は、力強いものよりも、むしろ弱い、小さい物に対して強い美的感情を刺激させられた。「枕草子」の中で雀の子の遊ぶさまを「うつくし」と形容しているが、そのような小さいな生物や「三寸ばかりなる」かぐや姫のよな存在が、ことのほか「うつくしい」ものと思われたのである。もちるん、この場合の「うつくし」は、まだ現在の「美しい」というほうど一般的な意味になってはいないで、もっと情緒的な意味会いが強いが、ほかならめその弱い、小さい物に対する愛情表現の言葉が、やがて一般的な「美」を表すものとして定着していく過程に、西欧の美意識よは違った我々の感受性をはっきりと認めることができる。いや、西欧とまでは言わずとも漢字の「美」が文字どおり「羊」の「大きい」さまを形容する会意文字であることを思い出せば、お隣の中国と比べても、そこにずいぶんお大きな差異があると言わねばならない。(ついでに言えば、「綺麗」の「麗」の字は、「鹿」の角の大きく堂々としているさまを表した文字だという)。箱庭とか、盆栽のような独特の芸術を発展させた日本人の美意識は、既に上代の「うつくし」の中に潜んでいたのである。
箱庭のよな特殊なものを持ち出さずとも、わずか数坪の広さの中深山幽谷の趣を現前せしめようとする日本の造園術を考えてみても、{縮みされた世界」に対する日本人の好には明らかであると言える。本物の鎧兜そっくりに作った五月人形をはじめ、日本人の人形の精巧さはしばしば外国人の驚嘆の的になるが、そのようなよな人形を愛好した我々の祖先たちは、そこに、人形師たちの優ぐれた技巧の冴えを見て感心したと同時に、大きな美的喜びを味わっていたに相違ないのである。
このことは、工芸の世界において特に顕著であるが,絵画の世界においてもはっきりとうかがうことがてきる。近世初期に数多く作られた洛中洛外図や風俗図屏風など、文字どおり「縮小された世界」であって、そこでは、かぐや姫よりももっと小さい登場人物たちが、多彩なエピソードを展開して見せてくれるのである。日本の絵画は、西欧の絵画と比べて、極めて平面的、装飾的であって、統一された空間構成がないということがしばしば言われる。それは確かにそのとおりと言ってよいが、そのような絵画表現上の特色も、実はこの「小さいもの」に喜びを見出す日本人の美意識と無関係ではない。