在《第三手记》里叶藏在“对人的恐怖”和“不寒而栗”中,竹一的预言“被女人迷惑”成真了,“成为伟大的画家”的预言没有成真。叶藏成了平庸的漫画家,与女记者、酒吧老板娘鬼混,只能以画漫画和春宫图为生。不久认识了纯真的姑娘良子,随后便迎娶了良子为妻。不久,叶藏在思考罪的反语时,良子在楼下被常来往的小商人强暴了。“比起良子被人玷污,良子的信赖被玷污,才是造成我日后很难活下去的苦恼原因”,叶藏沉溺于酒,企图自杀,染上毒瘾,被领进的不是疗养院而是精神病院。“我失去身为人的资格了。我已经完完全全不是人了。(中间省略)现在的自己没有幸福,也没有不幸。只是一切都过去了”。主人公叶藏身心疲惫的回到故乡,怀着对他人的不信任,失去做人资格的叶藏的形象与强制拘禁在精神病院的事件相关联中完成。以所谓的“失去人格”的形象作为主题来描写主人公。
整理大致的梗概形成上文,小说以由《我》写的《前言》、《后记》之间插入了大庭叶藏的三个手记而构成。虽然不知道作者写这个作品的缘由,但是这个作品是太宰治文学的顶峰,这是无可厚非的。另外,作者下决心,作为作家尝试新阶段时,留下可以称得上是回顾自己人生的一个阶段的作品。以作品发展期为区分的初期的《回忆》,中期的《东京八景》,后期的《人间失格》,作为阶段性作品可以评价为在思维上有新飞跃。《人间失格》不同于前期两部作品的是并非如实地描述了过去。而太宰治本身想要描述的是这种“失去做人资格”的形象,写《Human Lost》以来,一直困扰着太宰治,昭和11年被强制监禁的经历给了他精神上的打击吧。岛居邦朗指出 “太宰治由于发现自己失去人格而想通过一个主题来阐释自己的一生”。
作品主人公的手记在27岁结束,和住进精神病院而受到打击的年龄相符,因此被认为是太宰治经历的事实。昭和11年,他被强制进入精神病院,被人视为他是不正常的人,人们的这种看法引起的苦恼,也可以说是太宰治与《圣经》真挚的对话中所产生的苦恼吧。有很多人论述太宰治与《圣经》的接触,但不知道他在何时,以何动机接触《圣经》。《圣经》这两个词出现在作品当中,大概是昭和11年的《狂言的神》以后的作品,从这个角度来说,27岁是研究太宰治文学时令人瞩目的一个阶段。如前文所述的一样,太宰治何时开始与《圣经》接触还不够明确,昭和11年10月13日到11月12日才一个月,在精神病院的一间房中认真地读过《圣经》,这在《东京八景》中可以很容易推测出不是吗。
「第三の手記」では、<人間恐怖>と<戦慄>の中で、竹一の「女に惚れられる」という予言は当り、「偉い絵画きになる」という予言ははずれたが、葉蔵は下手な漫画家になり、女記者やバーのマダムの男めかけのようなかたちで同棲し、漫画や春画を描く。やがて汚れを知らない処女のヨシ子をしり、内縁の妻として迎えたが、葉蔵が罪の対義語を考えていた時にその階下でヨシ子は出入りの小商人に犯されていた。「ヨシ子か汚されたといふ事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたといふことが、自分にとってそののち永く、生きてをられないほどの苦悩の種にな」り、葉蔵は、酒に溺れ、自殺を図り、モルヒネ中毒の地獄に落ちて、連れ込まれたのはサナトリウムではなく脳病院だった。「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。(中略)いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」、廃人の身は故郷にもどり、人間不信の主人公葉蔵が、ついに人間失格の自覚を抱くにいたるまでの様子が、前記の脳病院に強制収容(拘禁)されるまでの錯綜したかかわりの中で描かれている。主人公のいわゆる<失格>者の姿をモチーフとしている。
おおまかにその梗概を辿ってみると以上のようになり、「私」の手になる「はしがき」と「あとがき」に、大庭葉蔵の三つの手記を挿むという構成をとっている。作者の真意は知る由もないが、結果としてこの作品が太宰文学の総決算となったことは事実である。また作者が何かを決意し、作家として新たなステップを試みようとするとき、必ずといっていいほど自身をふり返るような区切りの作品を残しているといえる。いわゆる作品史的区分における初期の『思ひ出』、中期の『東京八景』、後期『人間失格』は新たな飛躍を意識しての区切りの作品として評価できよう。そして、前者の二作品と比較して『人間失格』が内容において著しく異なる点は、決して過去の事実そのものを語ろうとしていないことにある。その<人間失格>というイメージは、すでに『Human Lost』以来いつも太宰を苦しめてきた問題であったが、太宰の描きたかったのは、『Human Lost』(昭和12年)にも描いたあの昭和11年の脳病院へ強制収容されたときの精神的ショックであったろう。鳥居邦朗氏の指摘にある通り、「この事件を自分の人格失格を失す決定的な事実と考えて来た太宰が、その一つのテーマによって自己の生涯を解釈してみせた」といって過言ではない。
因に、作品の主人公の手記が27歳で終っていることと、精神病院(脳病院)入院によって受けた打撃の年令が奇妙に符合することは、自己の経験的事実を意識してのものと思われる。昭和11年の強制入院イコール人間不信という、いわば図式化されたところからくる苦悩は、一方では太宰の『聖書』との真摯な対話の中から生まれた苦悩といってもいいだろう。その太宰治と『聖書』との出会いを論じたものは数多くあるが、彼がいつ頃から、またどのような動機をもって『聖書』と接したのかは定かではない。しかし、『聖書』としてのことばの登場をみるのは、おそらく昭和11年の『狂言の神』という作品以降であって、その意味でも27歳(昭和11年)は太宰文学を論じるときに気になる謎多き通過点ではある。太宰治と『聖書』との最初の出会いは前述ように明らかではないが、昭和11年10月13日から11月12日までのわずか一か月の間に、精神病院(脳病院)の一室で『聖書』との対話が真剣になされていたことは、『東京八景』の中の次の箇所から容易に推察できると思うのだがどうだろう。