但是,存在于中世纪的绊,在现代社会复苏并不能说是好事。中世和现代的社会框架是完全不同的,中世纪的绊也存在着很多的问题。就像是之前看到的那样,也存在着只有自我的利己意识,缺乏裁判的公正性,还有各种屡禁不止的纷争问题。
中世的绊是作为特定集团组织成员的纽带。这就是成为集团组织成员的由来,可以说是特定集团组织成员的绊。这种因为是集团组织成员的联系,再三陷入自以为是的境地,对外是排斥他人,对内是自我压抑。在现代,我们追求的联系必须是没有那样的危害,自律的、自我开放的联系。
东日本大地震即是巨大的地震和海啸,在“忘乎所以的时候到来的”自然的来势凶猛和由于原子力发电厂损坏而导致放射能污染这样意料外的科学陷阱把这一个个问题放在我们的眼前(即电视画面反复播放的),我们大概会说人类是什么,社会是什么,自然是什么,科学技术是什么,这些必须要重新根本性的研究的吧。
许多的生命在一瞬间就被夺走。刚刚还在说话的父母和孩子,谈笑风生的朋友知己,一眨眼就逝去了。这是为什么?该怎么办?他们的人生到底是什么。残留的人生,或者是侥幸活下来的我们是为什么?该怎么做?该怎么做才好。
生活在距离灾难现场很远的人们,理应存在相同的疑问,这不是也许这件事情明天就会发生在自己身上这样单纯的想法。而是因为同是日本人,同是生活在一个时代的同伴,同是生活在地球的人类与灾区的人们的确存在着纽带联系。这就是开放性的纽带。
受灾最严重的东北地区的太平洋沿岸,是日本屈指可数的水产地带,确实是受自然恩惠惠顾的地方。然而天地一变,遭遇了地震和海啸这样的天灾。
自然对于我们而言是什么呢,我们对于自然而言又是什么呢。
在人类诞生之前就有自然的。人类是在自然中诞生的。这大概是在自然的历史中就像是刚刚发生的事情吧。被海啸连根拔起的家园现在被移到了未开垦的土地上。在那里原来大概是砂原和草地吧,所以,人类最初仅仅是自然的一部分。
在人和人之间缔结联系之前,难道人和自然不是就应该已经缔结了很深厚的纽带了吗?在近代化的过程中,我们失去的最大的东西不正是人与自然的纽带吗?不,人与自然间缔结着深厚纽带这样的事实本身并没有丢失,现代人失去的是对人与自然间缔结着深厚纽带这个事实的觉悟。
ただしかし,中世社会に存在した絆を,そのまま現代社会にらせばいいというものではない。中世と現代とでは社会の枠組みが全く異なるし,中世における絆も,問題をはらむものでもあった。先に見たように,それはエゴにほかなたないこともあり,裁判の公正さをそこなうものでもあり,また絶えざる紛争の種となるものでめあった。
中世における絆は,特定の集団·組織のメンバーとしての絆であった。それは集団·組織のメンバーなるがゆえの,いわば受動的な絆であり,閉じられた絆であった。集団や組織は,しばしば独善に陥り,外に対しては排他的,内に対しては抑圧的となる。現代において私たちを求める絆は,そのような弊害をもたない,自律的な,開かれた絆でなければならない。
東日本大震災-すなわち巨大地震と津波という,「忘れられたころにやってきた」自然の猛威と,原子力発電所の損壊による放射能汚染という科学技術の思わぬ落とし穴と-を目の当たりにした(それはテレビの画面に繰り返し映し出された)私たちは,人間とは何か,社会とは何か,自然とは何か,科学技術とは何かについて,根本的な見直しをせまられたといえるだろう。
一瞬にして多くの命が奪われる。親が子が,いつさっきまで話,笑っていた友人·知人が,一瞬にしていなくなる。なぜ?どうして?彼らの人生は何だったのか。生き残った,あるいは残された私はなぜ?どうして?何をすればいいのか。
災害の現地から遠く離れて暮らす人たちにも,同じ問いが存在するはずだろう。それは明日は和が身かも知れないという単純なことではなくて,同じ日本人であり,同時代に生きる者同士であり,一つの地球に生きる人類であるという,被災地の人たちとのまさに絆が存在するからである。それは開かれた絆である。
大きな被害を受けた,東北地方太平洋沿岸は,日本有数の水産地帯,まさに自然の恵みに恵まれたところだった。それが一転,地震と津波という天災に見舞われたのだった。
自然とは私たちにとって何なのか。自然にとって私たちは何なのか。
人間が生まれるは前から自然はあった。その自然の中に人間が誕生した。それは自然の歴史の中ではつい最近のことだろう。津波によって根こそぎ家々が持っていかれて更地のようになった土地。そこはその昔は,砂原か草地だっただろう。もともと自然の一部にすぎなかった人間。
人と人が絆を結ぶ以前に,人は自然と強い絆で結ばれていたというべきではないだろうか。近代化の過程で,私たちが失ったものの最大のものは,まさにそれなのではないだろうか。いや,人と自然とが強い絆で結ばれているという事実自体はなくなってはいない。現代人が失ったものは,人と自然とが強い絆で結ばれているという事実についての自覚であろう。